高台の団地では一緒に越してきたご近所で次々と犬を飼いだした。 おりしもペットブームであり、両隣の家でも流行のミニダックスフントが家族の仲間入りしていた。

うちの一人娘は既に就職して都内に通勤していたが、右隣の家に可愛いダックスの子犬がきてからというもの、どうしてもうちでも犬を飼いたいと言い出す。

私も子供の時から、実家では犬との生活があったから、ここに越してきたときから犬は飼いたいとは密かに思っていた。

それに、自分の持病が内面的な部分から来ているのであるとするならば、癒しのペットは良い結果をもたらすかもしれないとも思った。

しかしながら、我が家で犬を飼うためには、クリアしなければならない大きな課題が一つあった。

 

カミさんの実家は所謂「猫派」であり、長年猫を飼って慣れ親しんできており、彼女もそして彼女の妹達も、子供のときに、当時田舎ではよく見かけた、近所をうろつく野犬に咬まれたトラウマから「犬は絶対イヤ」と言い放っていた。

 

娘と二人で「仔犬大作戦」と名づけて、カミさんには内緒で週末にはあちこちのペットショップを見て歩いた。 

私は大きな犬が欲しかったのだが、

「お母さんの犬嫌いをクリアするには、子猫ぐらいのちっちゃい犬しかないでしょ」

という娘の意見はもっともであった。

超小型の室内犬というと、選択肢は限られてきており、チワワ、パピヨンといったたぐいだが、あちこちのペットショップを毎週のように二人で見て歩いても、どうも私にはぴんと来なかった。

 

ある2月の土曜日、家から一番近いホームセンターのペットショップコーナーに娘と行ってみると、一番端のガラスケースに、先週まではいなかった真っ黒なヨークシャーテリアの仔犬がうずくまっていた。 

生後1ヶ月のオスで、とても小さいが、どこが顔だか分からないほど黒い毛で全身が覆われている。 

二人でガラスケースに顔をくっつけて覗き込むと、ちっちゃい顔を持ち上げて、潤んだ瞳でこちらを見るが、何だが他の犬に比べて全く元気がないし、鼻水も垂らしている。

 

書店で「ヨークシャーテリアの飼いかた」という本を1冊買って帰り、娘の部屋でまたまたお母さんに極秘での検討会を開催した。 

なになに「ヨークシャーテリアは通称ヨーキー、歩く宝石と呼ばれ、性格は快活で賢い。立ち耳で、仔犬のときは黒毛だが、一般的にはスチールブルーとタンの2色になる・・・・」

「成犬で1.5kg3kg」とある。

「うん、これだね。 体重2キロ程度なら小猫も同然だし、確かに街中で奥さんなんかがヨーキーを片手で抱いているのを見るけど、かなり小さいよね」

「これなら、お母さんも大丈夫と思うよ」と娘も同調する。

 

ターゲットはヨーキーに絞り込まれたので、翌日の日曜日にまた二人で他のショップも見て歩くと、どの店にも元気一杯のヨーキーが沢山いた。

でも、私はなんだか昨日見たハナたれヨーキーが気になって仕方がなかったので、又見に行った。 

すると、昨日のガラスケースは空っぽになっているではないか。

もう売れてしまったのかと、店員に尋ねると

「風邪引いているんで、奥の部屋であったかくしているんですよ、見ますか?」

と聞くので、お願いして、ガラスケース裏側の奥の部屋に通してもらう。

細長い裏部屋の隅っこに、蓋の閉じられた小さなダンボール箱があった。

店員が上蓋をそっと開くと、新聞紙の細切りが敷き詰められた真っ暗な狭い箱の中で、その子はうずくまって怯えていた。

頭をそっと触ってみると、顔を持ち上げて、「くーん」とひと鳴きする。

抱き上げてみると、片方の手のひらに収まってしまうくらい小さくて、暖かく、少し動物の匂いがした。 

ヨーキーなのに両耳は垂れている。

「耳が垂れているねえ、ヨーキーって立ち耳だよねえ」と店員に聞くと、

「そうですね、耳にテープを貼っておくと、立つようにはなりますけどもね」などと言う。

他で見た元気なヨーキー達は、皆両耳がピンと立っていた。

娘はあまり乗り気でなく、他の店で見た元気なメスの子がいいという。

大体わが家は、カミさんと娘の女二人に仕切られているのであるからして、犬は断固オスを飼って22にせねばならないと心に決めていたし、このはなたれ小僧はこのままでは買い手も付かず、どこかへ転売されてしまうのではないかと思うと、私の気持ちは殆ど固まっていた。

 

1週間ぐらいは体調を整えないと売ることも出来ない、と店員も言うので「とにかくうちで引き取るから、早く元気にさせてください」 「でも、ちょっと我が家でも解決しなければならない問題があるので、多分としかいえないんだけれど・・・」と最後は歯切れの悪い言葉になってしまった。

 

さて、家に帰ってカミさんに事の顛末を長々と説明する。

彼女は僕たちの話を黙って聞いていたが、最後に一言

「飼ってもいいけど、私は世話をしないから、日中はあなたの会社へ連れてってね」

と凄いことをおっしゃる。

「まあ、とにかく見に行ってみようよ」と説得して、又3人で出かけ、ダンボール箱生活中の耳たれ君を彼女に紹介する。

その耳たれの仔犬は、どんなに犬嫌いと顔をしかめたところで「あらら、可愛い・・・」と見た人を虜にしてしまう、つぶらな瞳と黒豆のような鼻を持っていた。

「ほら、抱っこしてみな」と彼女を促す。

犬を抱いた経験のないカミさんは、恐る恐る両方の手のひらをそろえて、まるで小さなぬいぐるみのようなその生き物を店員から受け取った。 

顔を近づけて覗き込むと、耳垂れ君は呆れるほど小さい舌で、彼女の鼻先をぺろっと舐めた。

彼女はびっくりしたように「あら、この子私の顔を舐めたよ」

この瞬間に魔法がかけられてしまっていたことに彼女はまだ気づいていなかった。

娘は、しめしめと言った顔で私にウインクする。

「でも、すぐおっきくなってしまうんでしょう?」

「いや、これは成犬でも2キロぐらいって本に書いてあったから、今より一回りぐらいしか大きくならないんじゃあないかなあ」と私が言うと、店員も「そうですね」と言って相槌を打つ。

このとき、我々3人も、ペットショップの店員さんでさえもそう思っていたが、世の中には本に書いてある常識が、必ずしも正しいとは言えない、という事を後に身をもって経験することになる。

かくして、彼は1週間の裏部屋療養の末、ちょうどショートケーキを入れるような小さな屋根型蓋のもち手の付いた小箱に入れられて、我が家へやってきた。

その日も、カミさんは相変わらず「会社に連れてって」と本気とも冗談とも判別できないコメントを真顔でしていたが、3日目には「可愛い、可愛い」と、一日中抱いていて、こちらが駄目だと言うのに「生まれて1月でお母さんと離されて可愛そうだから」といって一緒に寝る始末。

3人で名前をつけようと協議した。

昔、私の叔父が飼っていた犬は、当時よくいた「ジョン」であったが、私たち夫婦はビートルズ世代であり、「レノン」にしようと私が提案した。 

結局、レノンはなんだか呼びにくいので、縮めて「レノ」さんになった。  

 

うちの家族は、私以外は犬を飼うのは初めてゆえ、カミさんと娘は犬に関する本を読んで勉強していたようだが、

「こんなことが書いてあるよ」とカミさんが私に本を持ってくる。

「ペットショップで犬を買うときのポイントだって」

「まず、元気がいいことが一番の決め手で、ハナを垂れていて風邪を引いているような子は絶対避ける、って」

「・・・・」「だって、そんなこと言ったって・・」と反論する言葉が見あたらない。

しかしながら、我が家のレノさんは猛烈な食欲でドッグフードを一日3食食べ、どんどん元気になって、庭を走り回るようになってきた。

カミさんを自分の母親と思っているらしく、一日中付いて回って離れない。 

「犬は絶対イヤ」、と言っていた人も、そんなレノさんが可愛くてたまらなく、いいコンビになってきた。

 

4月になって、庭の花々が賑やかになってきた。

1月生まれのレノさんは、生後3ヶ月になったが、なんだかどんどん大きくなっているような気がしてならない。

体重を量ってみようということになって、ヘルスメータに乗せると、3kgを超えている。

「成犬で2キロぐらいって言ってたよねえ」

何冊かの犬の本を見直してみたが、やはりどの本にもヨークシャーテリアは「成犬で1〜3kg」とある。

「てことは、この子はもう成犬ってこと?」

「いやあ、まだ3ヶ月で黒毛のままだし、そんなことはないはずだなあ」

「私がドッグフードやりすぎちゃったのかしら、でも書いてあるとおりの分量しか上げてないのよ」

「うーん、おかしいね。 というより、ちょっと心配だから、獣医さんに診てもらおう」

ということで、近所の動物病院の下澤先生に診せる。

「ヨーキーは、ごくたまにおっきくなる子がいますよ」

「この子は立派な骨格をしているし、全然太ってはいないから、全く問題ないです」

「多分、お父さんお母さんが大きいんでしょうね」

「ふーん」と、なんだか納得いかないが、とにかく元気で問題がないということが分かったので安心する。

我が家のレノさんはその後も順調に身長と体重が増え続け、1年後には5kgになり、5歳になる今では大体6kgから6.5kgの間にあり、伸びれば体長は80cmで、標準ヨーキーの2倍以上だが決して肥満ではなく、やたらにパワフルに育ったのである。

右隣のダックスのベリー嬢や、左隣の同じくダックスのボニー君とバロン君らと、4匹で組んず解れずの取っ組み合いで遊ぶときには、彼らより一回りもふた廻りも大きい我が家のレノさんはまるで暴れん坊将軍である。

来たばかりの時は、ハナを垂らして、ケージの1cmの段差が怖くて降りられなかったレノさんであったが、今では私が2階で何かしていると、「どどっ」と音がして階下から階段を2段飛びに駆け上がってくるし、居間のソファーで横になっているときに、ホップステップで飛んできて腹の上にどすんと乗られると、胃袋が飛び出しそうになる。 

とてもヨーキーとは思えない重量級のやんちゃ坊主なのである。

相変わらず両耳は垂れたままであるが、その耳は大きくて柔らかくて、とても立ち耳にはなりようがない。 

「そういえば、この子を初めて見たとき、随分頭が大きいと思ったのよ」

なんて、かみさんは今頃になって分かったような事を言う。

とにかく、散歩に連れていて他のヨーキーを連れた人に会うのは、ちょっと嫌なのである。

もう、ヨーキーというより「オーキー」なので、その飼い主は必ず驚いて

「大きいですねえ、ヨーキーですよね? ミックスちゃんなのかしら?」

「なに言ってだよ!ボクは血統書もあるれっきとしたヨークシャーテリアだ!ルーツはリバプールだい!」

と言うレノさんの怒る声が聞こえてくるのである。





     ボクがオーキーのレノだ! もんくあっか!








 

レノさん