「エレベータ」 完結編
−1−
部屋の電話が鳴った。
御用納めが終わり、明日から年末年始の休みにはいるので、早木 努は郷里の福岡に帰省する支度をすませてそろそろ寝ようかというときだった。
こんな時間に電話をかけてくるのは恋人の慶子ぐらいだが、彼女は決まって努の携帯にかけてくるから、電話の相手は慶子じゃないことは確かだった。
努は電話機のナンバーデイスプレイシステムが検索した名前表示を確かめるまでもなく、相手が誰であるかは見当が付いていた。
こんな時間にうちに電話をかけてくるやつ・・・・
オレンジ色に光る電話機のパネルを見るとやっぱり「社長自宅」の文字が点滅していた。
今夜だけは避けたい相手だったが、仕方なく受話器を上げた。
「はい、早木です」ぶすっと、ぶっきらぼうに答える。
「おう、つとむ、俺だ、悪いな、こんな時間に」
「おやっさん、もう今年は店じまいだって、さっき言ったばっかりじゃあないすか。明日は出られませんよ」
「ああ、明日福岡に帰るんだったな、何時の飛行機だ?」
「朝一ですよ、だから明日はダメ」
「いやあ、明日じゃねんだ、今からなんだよ」
「え! 冗談じゃないすよ、なに言ってんですか・・・それに俺、飲んじゃっているしさ」
「うそつけ、何年付き合っていると思ってんだ。 飲み会だってウーロン茶飲んでるやつが、晩酌するかよ」
「今何時だと思っているんすか?」
「そうなんだけどさ、俺も佐々木も、哲の野郎もみんな酔っ払いでさ、お前しかいねえんだよ・・」「現場はお前のうちからだったら20分だからさ、頼むよ、年明けたら福寿司で特上おごるからさ、なあ、頼むって」
「まったく・・・そんで、状況はどうなんですか?」
「いつものやつよ、スポルケット抜けと基板交換よ」
「またすか? 基板って、EM-154Dですか?」
「そうよ、お前、車に積んでんだろ?」
「ありますけど、あれって完全に設計ミスって言うか、リコール対象じゃないすか? 社長から本部に報告しなくていいんですか?」
「そりゃあさ、そうだろうさ、今月でもう10件目だもんなあ・・・でもよ、俺がよお、ご注進って、申告したらどうなると思う? 明日っから仕事なんかこねえよ、わかんだろ、そんなこと」
「まあ、そうだけどもさ、事故ってからじゃあ遅いと思ってさ」
「ま、俺にはどうにも出来ねえってことさ・・・ま、とにかく行ってくれよな」
「じゃあ、正月明けに慶子も連れてゆくから、特上二人前ですよ」
「ああ、わかった、わかった」
がちゃんと一方的に電話は切れた。
幼いときから父親を知らない努にとってこの社長は父親以上の存在だった。
高校時代にぐれて少年院に入り、誰も相手してくれなかった努をここまで育ててくれた。
どんなことがあっても、一生ついてゆくと決めた相手であった。
電話が鳴ったときから仕事の依頼であることは容易に察しが付いたし、断ることはできないこともわかっていた。
−2−
内山澄子はこの2LDKの住まいがとても気に入っていた。
地下鉄東西線南砂町駅から歩いて5分とかからない荒川の河口沿いにあり、ちょっと行けばもうそこは東京BAYである。
この高層と言えるかどうかは微妙な10階建ての住宅に澄子が越してきたのは昨年の夏であった。
住まいに関してはなんだかツイていないことが多く、点々とこの10年間は引越しを繰り返してきたが、ここは通勤も至便であり、とってもお気に入りだった・・・・その事件がおきるまでは・・・
「東京都住宅供給公社」という、言葉に出して言えば舌を噛んでしまうような団体は、基本的には東京都が経営する公団住宅であり、直轄の都営団地とはまた違う位置づけになっている。かつては低賃貸料金で人気があり、抽選も高倍率であった。
でも、もう、それは大昔の話である。
澄子はそんな過去のことなど知るはずもない32歳のOLというより、男も一目置くかなりのキャリアウーマンである。
この物件は、たまたま、職場がある錦糸町駅前の不動産屋に紹介されただけである。賃貸料金はその建物の古さの割には高かった。
その江東区南砂にある東京都住宅供給公社の集合住宅は、10階建てが4棟からなっていた。もう今では周辺に20階以上の超高層住宅がジャングルのように建っている場所であるから、この住宅はそんな超高層のマンションに見下ろされるように建っており、ジャングルの中に埋没してしまっているようにさえ見える。昭和40年代後半に供給公社が鳴り物入りで建築した公社で最初のエレベータが付いた高層住宅であった。当時はおそらく東京湾を埋め立てた更地にこれ以上高い建造物はなかったであろうから、とても眺めが良かったに違いない。
既に30数年の歳月がこの住宅の存在感さえを押しつぶそうとしていた。
新築当時は東京都供給公社にしては結構な家賃だったから、そのとき一斉に入居してきた人たちは、あまり若い夫婦も老人夫婦もいなくて、どっちかと言うとまだ小学生ぐらいの子供を持つ、働き盛りの30台から40台の住人が多かった。
そんな住人達もとっくにリタイアの年齢になり、大半はここを出て行ったが、いまだに当時の住人達が随分残っていた。だから、住人の年齢構成は把握が出来ないほどばらばらであり、棟と棟の間にある小さな公園にはかつてのような子供達の歓声はなく、どちらかと言うと老人の姿が多かった。
いくら新居者のために内装をリフォームしたところで、風呂は追い炊きが出来ないタイプであるとか、あらゆる機能面ではいまどきのマンションとは比べにならない住居である。
澄子が入居した部屋は、たまたまであったが、10階最上階の東南の角部屋で、林立する超高層マンションの間隙を縫って、東京湾の夜景が美しかった。
独身の女が一人で生活するには十分でかつ快適な空間がそこにあった。
彼女にとっては一日の疲れを癒す部屋であり、帰宅してからバルコニーから東京湾の夜景を見下ろして一杯のワインを飲むのが何よりの楽しみであった。
−3−
春野朝子は澄子よりもひと回りも年上の同業者仲間であり、ひょんなことから知り合った間柄だが、二人は偶然同郷で気心が合った。
独身の二人は、互いに休日は一緒に出かけたり定期的に旅行にいったりした。
その土曜日は、澄子がこの住宅に引っ越してきてから、初めて朝子を招待した日であった。なかなか忙しくて、話ばかりで、呼べずにいたが、今日は互いに都合が付いたので、午前11時に南砂町駅の改札で待ち合わせた。
「あら、すみこちゃん、随分とこじゃれたところに住んでいるんじゃあないの」
「そんなことないわよ、この辺の高層マンションは格好いいけど、うちはオンボロなのよ、行けば判るけど」
「ま、眺めがいいのだけが取り柄なのよ」
「今日は久しぶりに私が腕を振るって美味しいランチをご馳走するわ」
5分もおしゃべりしながら歩けば、もうその一角に着く。
「あら、あら、なんだかここだけは随分とタイムスリップしているわね」
「だから言ったでしょ、もう、築35年ってとこだからさあ・・・ここだけが取り残されたって感じなのよお」
エントランス周りには今は使わない共同ごみ収集箱やら、赤錆びて屋根が崩れている自転車置き場など、やっぱり、最近建ったマンションとは違う風景があった。
両開きで、重たい鉄枠の付いたガラスのクラッシックな玄関戸を押してなかに入ると、そこはこれまた殺風景なコンクリート打ちっぱなしの、何もない玄関ホールだった。
玄関ホールを入ってすぐ左脇に小窓が付いた管理人室がある。管理人はいるにはいるが、月曜から金曜の日中のみシルバー人材センターから代わる代わる老人が派遣されてきているだけで、何の役にもたたないから、住民も何の期待もしていない。
玄関ホールは結構広くて50畳敷きぐらいはあろうかと思うが、その正面に並んで2台のエレベータがある。2枚スライドドア式のドアに、内部が見えるガラス窓がはまった、ごく一般的な住居型エレベータだが、最近換装工事したばかりの新型で、建物と随分ミスマッチした真っ赤なドアが付いている。
降りてきた右側のエレベータに二人で乗り込むと、朝子がすぐに言い出したことは澄子にとっては意外なことだった。
「あら、やだ、あそこ隙間があいているわね、いやーだこと」
「え、なに?」
「ほら、そこの壁のところよ」
みれば、6人も入れば一杯になってしまう小型エレベータ室の突き当たりの壁の下のほうに横幅90センチぐらいの隙間が5センチほど口をあけている。
澄子はこの隙間には以前から気がついていた。隙間は時には閉まっていたり、10センチぐらい開いていたりして、何だろう・・・としか思っていなかった。
「いやあねえ・・・おかん穴が開いているなんて・・・」
「え? なあに、おかん穴って?」
「え、知らないの? そこの奥に四角い切れ目があるでしょう。おかん穴って言って、棺おけを運ぶときに入れる穴よ」
「え? 棺おけ?」
「そうよ、この狭いエレベータじゃあ、お棺が横のまま入らないでしょう? 立てるって言うわけには行かないし、非常階段なんか多分小さい螺旋階段だろうから、そこも運べないから、こういう古いマンションなんかのエレベータには必ず「お棺穴」がついているのよ」
「ええーーー!いやあだ! そうなの? 知らなかった・・・・」
良く良く見れば、幅90センチぐらいで高さが50センチぐらいのスライド板のような蓋でその穴は塞がれているが、通常は留めてあるビスが落ちているか、或いは止め忘れていったのか、脱落しているから、蓋がずれ落ちているのだ。
確かに老人が多い住宅だから、ご不幸は多いかもしれない。
それからというもの、澄子はエレベータに乗るとその穴が気になって仕方なくなり、蓋がずれ落ちている右側のエレベータには絶対乗らないようにしていた。右が先に来ていても、左側が来るまでボタンを押して待った。
−4−
暮れも押し詰まった師走の29日、職場での打ち上げをやった後も、錦糸町のカラオケで同僚達と大騒ぎして、澄子が南砂に帰ってきたのはもう深夜2時を回っていた。騒ぎすぎてすっかり酔いもさめてしまっていた。明日からのんびりと年末年始の休日が始まる。
重たい玄関ドアを押して開けると、同時にひゅーっと冷たい風が玄関ホールに吹き込んできた。
「こまめに電気は切りましょう運動、もいいけれど、こんな夜中に暗い玄関はいやあね・・・」などとわざと大声でいいながら、澄子は玄関ホールを進む。
正面2台のエレベータのくだんの右側は、なぜかドアが開いたままになっていた。
とにかく右側は嫌なのである。UPマークのボタンを押して左側が降りてくるのを待つ。
ところが、いつもならすぐに降りてくる左側のエレベータは4階で停止したままで、いくらボタンを押しても4階を動こうとしない。
おトイレを我慢してきたので、早く部屋に帰りたい。 もういいや、とばかりに右側に入り、10階のボタンを押すと、エレベータのドアはすーーと閉じて、こくっと箱が揺れたかと思ったら、すーーと上り始めた。 後ろは見ない。
2階、3階と上がっていったと思ったら、突然4階付近で「ガタ!!」と大きな揺れと共にエレベータが停止してしまった。
「やだ、なに?」
と同時に照明がばっと消える。 真っ暗闇がやってきた。
「えーー、やだー! どうなってんの?」
と、天井の隅の非常用のランプが点灯したようで、赤いぼんやりとした光がエレベータ内を包んだ。
「えーー、やだ、やだ、なに!え!」
澄子は慌てて壁際のボタンをあちこち押すが、ボタンパネルのランプは全部消えていて、全く反応を示さない。
「えーー、どうなってんの! これーー、動いて、はやく動いて!!」
どうやらエレベータは4階で停止しているようだった。
なにやらエレベータ室の中には線香の香が漂っている。
そういえば、昨日4階で誰か亡くなったって、今朝管理人が言っていたのを澄子は思い出した。
「うそー!いやああーーーーーーーーー!」
澄子が必死でドア脇のボタンパネルを叩いている、そのときだった・・・
背後で何か気配があった。
「ガタ!ぎー」と音がした。
背後の穴の蓋がぎーっと降りて・・・
真っ暗な穴の底から、澄子の足元に、黒い長い髪の毛が冷たい風に吹かれて流れ込んできた。
穴の左のほうから、赤黒い血に染まった腕がすーーーと出てきて、澄子が立っている足元の床に、「べたっ」と音を立てて、開いた手のひらが張り付いた。
「え、え、え、!!!い、い、い、い、 いや、いやいやーーーーーー!」
ぎゃーーーーーーーーーーー!」
澄子は谷底に落ちてゆくように気が遠くなっていった。
−5−
シンデレラエレベータのメンテナンス契約会社の技術員、早木 努は、油がべっとり付いた作業用手袋を外してエレベータの床に放り投げると、自慢の長髪を両手でかきあげながら、失神した女を膝に抱えて、さっきから「まいったなあ」を連発していた。
「まいったなあ・・・・なんだよお・・・『調整中』って、札が見えなかったのかよお・・・」
「いきなり登ってくんだものなあ・・・電源切んなきゃ、こっちがやばいところだったぜ・・・」
「夜中に呼び出された上に、これだもんなあ・・・・まいったなあ・・・やってらんないよお」
「しっかし、まいったなあ・・・やっぱ救急車呼ぶっきゃねえかなあ・・・・・」
「社長に又怒鳴られんなあ・・・・・」
「完」