「吊橋」 完結編
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キャピタルTOKYOを西から東に流れる多摩川はアメリカニューヨーク州を流れるCatskil riverと似た条件を備えている。Catkilも上流にリザーバーがあり、一年中冷たい水がダム底から流れ出している。 でもCatskilは緩やかな草原を蛇行しながら流れてくるのに対して、多摩川の上流帯は完全な山岳渓流である。
小郷地ダムのダムからおよそ20km下ると、ようやく青梅市内の緩やかな流れになる。
小郷地ダム直下の流域はV字谷が深く、人を寄せ付けない感じがする。
V字谷の崖っぷちにはあまり知られていない旧道が走っていて、旧落もすこしある。
ダムを建造したときの旧道とかトンネルが延々とV字谷の斜面に沿って走っていることはあまり知られていないし、現在の青梅街道側からは樹木に隠れて見えないのである。
小郷地ダムを抱える奥多摩湖まで行くと、もう東京都とはとても思えない景色である。春夏秋冬季節の変わり目を楽しむ観光客の車が青梅街道を渋滞にする。
多摩川は奥多摩湖を境に上流は多波川と小菅川に2分され、渓流魚を扱う漁協も管轄が違ってくる。ダムから下、羽村の堰までは奥多摩漁業組合が管理する流域である。
この渓流の上流帯では漁協が放流したヤマメの稚魚がきちんと育って、小郷地ダム下から鳩ノ巣辺りまではなかなかの渓流釣り場である。
観光客も沢山いるけれど、良く見ると、水中には綺麗なパーマークを身体に持ったヤマメが並んで泳いでいるのを見ることも出来る。
渓流釣り師はどんな崖だろうが谷底だろうが、ずんずん川に下りていってしまう習性がある。
須藤良夫も昔はそうだった。 わらじを履いて滝だろうが崖だろうが岩魚をがいそうだとなればどんなところでもとことん上流へ登って行ってしまった。
ところが、20数年前に滝登りの途中に滝上から20メートルも滑落して、全身打撲の大怪我をして病院に担ぎ込まれてからそういう釣りはやらなくなった。
あのとき、相棒の三田雅夫がいたからよかったものの、単独釣行だったら、須藤は岩魚の餌になっていたところだった。
そして、須藤は中流帯の格好ばかりのフライ釣り師に成り下がった。
路上に停めた車のそばにビールの自販機があり、そこから2分以内に降りれるようなところしか行かなくなった。
「ダム下」のポイントは須藤が偶然川で知り合った餌釣り師に案内されたところだった。
小郷地ダムのダム壁が眼前に見えるような場所で、旧道から見下ろして覗くと川筋が細く光って見えるだけのところで、川面までの落差は50m以上ありそうだった。
車を駐車した場所からちょっと先にワサビ畑作業の人のための華奢な釣り橋が架かっているが、この吊り橋を渡ることはあの事故以来の高所恐怖症の須藤には耐え難い。
しかし、どうやって開拓したのか知らないが、旧道から藪を分け入ると獣道のような踏み跡の降り道があった。須藤はその餌釣り師の案内に従って、九十九折に下って行くといつのまにか河原に出た。河原は直径5mもあるような大岩が点在する凄い場所で、川幅は3mもなく、枝状に分流している。
須藤が最初にその人といったのは五月の新緑の季節で、日中なのに6寸ぐらいの綺麗な天然と思われるヤマメがドライフライに飛びつき、堪能した。
自宅から近いこともあり、以来須藤はたまに一人でここに来た。
一番いいことは、釣り人がいないので、手付かずなのである。
あの降り道はさすがに自分で探すことは出来ない。
その夏の昼下がりは同じくフライフィシングに転向した相棒の三田と連れ立って、青梅市内を流れる多摩川中流域を攻めたが、暑いだけで、全く面白くない状況だった。
イブニングライズはあのとっておきのダム下ポイントに行ってみようと須藤は相棒を誘った。 何しろ、道路までのアクセスが厳しいし、真っ暗になって上り口を見失ったら帰れなくなるから、夕まず目の時間にあそこに一人で行ったことはなかった。
ま、今日は相棒がいるからいいだろうと考えた。
現場の旧道に、駐車した車はなかった。
もし、車があれば、あの狭い釣り場は先行者にやられているので、引き返そうと思っていたのであった。
二人は教えられた秘密の獣道を歩いて崖を降りた。
まだ、明るいときはなぜかアブラハヤしかフライに食いつかなかった。
「ヤマメはどこに行ったんだ?」
さすがに8月で季節が良くないのだろう。
でも、日没時になればハッチが始まって、ヤマメさんも登場するに違いない。
河原への降り口を見失わないように、目印をつけて、須藤は川下へ、三田は上流へと分かれた。
この場所は、降り口から上流に100メートルほど行くと、行く手をふさぐ大岩地帯なので、そこが行き止まり。また、下流も同じく、100メートル行くと両岸を高い崖で囲まれた深い淵になっているから、ここで行き止まり。 つまり、旧道からの降り口を挟んで上下100mの袋小路の釣り場なのだ。でも、荒らされていない場所で、ヤマメが沢山いることは確認済みなのである。
須藤は大岩の上に胡坐をかいて陣取って、どんずまりのプールを見下ろし、ヤマメが出てくるのを待った。
背中の方向の遥か上空を見上げると吊り橋が揺れているのが見えた。
V字谷の日没は早い。夕陽がダム壁の向こうに沈みきると、谷底にはあっという間に暗闇がやってくる。
とたんに正面のプールが賑やかになった。
ライズリングがあっちこっちで出来ている。
明らかに、さっきの小さいアブヤハヤの波紋ではない。真打が登場してきたのである。
河原に立って、#14のブルーダンのドライフライをほんの3m先のライズリングに飛ばすと、フライの着水と同時にバシャっとヤマメが食いついた。
3番のバンブーのフライロッドをしならせて20センチぐらいの美しいヤマメが岸に寄って来た。
続けさまに3つ同サイズを釣る。
やっぱり昼間は小型しか釣れなかったが、「イブニングのこのプールにはいい型のがいるわい」と須藤はほくそえみ、持ってきたビニール袋に水を入れて、3匹をキープした。
気がつけば、既に真っ暗になり、漆黒の闇がやってきていた。全くあたりは見えない。
胸に着けたペンライトと強力マグライトを点けて上流方向に戻る。
集合地点付近に明かりがちらちらしている。相棒のライトであろう。
相棒は降り口の目印の大岩の上にいつものように後ろ手にロッドを持ったスタイルで、じっと立ちすくんでいた。
フライベストに留めたペンライトだけが上方を向いて顔だけを照らしているので、不気味な感じがするではないか。
「おーい、どうだった? こっちは3つ、3つ、なかなかいいヤマメ!」
と須藤は大声で相棒の三田を呼ぶ。
三田は、はっと我に返ったような風で、須藤に気がつき、岩を降りてきた。
「ほり、ほり、3つ」と言って、須藤はビニール袋の中で暴れるヤマメを三田に見せる。
須藤はいつものように、相棒の「おーおー、なになに、どれどれ」という反応が返ってくることを期待したが、なんだか興味を示さない。
「そっちに、人が行ったろう?」
三田が真剣な顔つきで須藤に聞く。
「え!なに? 人?」
「うん、下流のほうへ行ったんだけど、会わなかった?」
「え、なに言ってんだよお、俺らの他に誰もいないじゃんか」
「車だって俺らのだけだったしさ、ここはあっちもこっちも行き止まりだから、どっからも入ってこれないしさ、なに言ってんだよ」
「だろう?・・だから不思議なんだよ。5分ほど前に白っぽい服着た男が上のほうから降りてきて、ささーーって、下のほうへ行ったんだよ」三田がいう。
「えーー、釣り屋さんか?」
「いやあ、釣り竿持ってなかったし、そういう格好じゃあなかった。それに変なんだよお」
「なにがよ」
「上から来たんだけれど、あっという間に目の前を通過していったんだよ、こんな岩場なのに」
「えーー! それで、どんなやつだったの?」
「だから、白っぽいYシャツのような格好で、顔はよく見えなかったけど、俺に気がつかない様子で、真っ直ぐ下流のほうの正面を向いていて、そっちのほうへ降りていったんだよお」
「えーー、そんなの・・・・誰も来なかったよお・・・」
「それって、コレ・・じゃあねえの」
「やっぱり、そうかなあ・・・そんな感じのやつだったから・・・」
とにかく旧道に上り切ると、やっぱり車は須藤達の一台だけだった。
車なしで、こんな場所に来ようがない。
「やっぱ、あんたが見たってのは、やばいやつだったのね!」
といって、須藤が茶化す。自分は見ていないので、恐怖感がない。でも、三田はすっかり怯えてしまっている。
「まあまあ、そういうこともありますよ」
とかいって、須藤は三田を励まし、青梅街道を下って、川崎まで帰る三田を青梅駅まで送りつけた。
彼は幽霊を見てしまったのだろう。確かにそんな感じのする場所であることは間違いない。
三田を駅で送ってから、須藤はいつもの釣り仲間が集まる橋のたもとにある釣具店に顔を出した。
仲間がいつものように奥の部屋に集まって釣り談義をしていた。
「ヨー、皆さん、お集まりでーー、今夜はやりましたぜ!」
といって、須藤はビニール袋のヤマメを見せびらかす。
「おんやあ、めんずらしいこともあるもんだ・・・」
「どこでやったのさあ?」
「うん、今夜はダム下の第二吊り橋の下よ」
「えーー!」
その場にいた全員がいやな顔をして、顔を見合す。
「え! なんだよお、あそこひょっとして禁猟区とか・・・・?」
「いやあ、禁猟区じゃあねえけどさあ・・・俺はあそこだけはいかねえ・・・」
「まして、イブニングになんかとんでもねえ・・・」
「ええ・・・!なんでえ・・・?」
「知らねえの? あそこはゴーストポイントって有名な場所だぜ」
「ご、ゴーストポイント!?」
「あそこの第一、第二の吊橋から毎年30人は飛び降りているんだぜえ」
「あそこのヤマメはそいつらの霊だって言うしさあ・・・・」
「そのヤマメ、そこから放してやったほうがいいぞ!」と後ろからも声がかかる。
「えーーー! そうなのお・・」須藤は焦った。
さっきあった出来事を面白おかしく話しようと思って、ここに入ったのに、いきなりストレートパンチが来てしまった。
相棒が見た幽霊の話なんかどっかに飛んでいってしまった。
須藤はあわてて、店を飛び出し、橋の下まで降りて、3匹のヤマメを多摩川に放してやった。
−2−
W工科大学天文観測同好会に所属する恭平と敦は、第二吊橋を渡りきった広場にキャンプを張って三日目だった。
「今夜は良さそうだね」敦が言った。
「うん、雲が切れてきたし、天気予報も晴れと言っているしね」恭平が答える。
広場には口径25cm、長さ1メートルのニュートン反射望遠鏡と口径12cmの屈折望遠鏡が並んで大型の自動赤道儀の架台に据え付けられていた。
「ちちち」と音がして、追尾の赤道儀のモーターが既に回り始めていた。
敦は盛んにノートパソコンのモニターに映し出された映像をチェックしている。
主鏡である反射望遠鏡のアイピースが装着する部位には高感度冷却CCDカメラが取り付けられていた。サブ鏡の12センチで全体像をチェックする。
あたり一面に配線が張り巡らされて、機材で一杯でそこいらじゅう足の踏み場も無い。
「あつし、まあ、飯を食ってからにしようぜ、今夜はじっくりやれば系外銀河の三つや四つは撮れるとおもうよ」恭平が言った。
「もうレトルトしかないんだよな・・・もっと肉を買っとけば良かったなあ」
「そんなこといったって、ここに一週間頑張ろうって行ったのはおまえじゃねえか」
「氷も無いんだから、そんなこと言ったて無理じゃんかよお・・」
「まあ、そりゃあ、そうだ」
「まあ、カレーでも食うか、飯は炊けたかな?」
といって、恭平はコールマンのツーバーナーコンロにかけてある3合飯盒の様子を見に行った。
「ちょっと風が出てきたな」
「これじゃあガイドスコープを出さなくちゃ駄目だね」
通常天体写真を撮るには赤道儀を地球の自転に合わせてトラッキングするが、追尾システムのギアの誤差や地面の不安定さ、そして風で鏡筒が揺れると長時間露出する系外銀河のような淡い天体写真の場合は画像が滲んでしまう。
だから、ガイドスコープというサブ望遠鏡を使って誤差を修正する。
サブ望遠鏡にもCCDカメラを装着して、常に目標天体が主鏡の中心にあるように自動制御させるのである。なかなか大掛かりなシステムだが、二人はクラブのメインシステムをそっくり借り出してきたのであった。
夏休みに何とか良い写真を撮って、秋の学園祭に写真展示をしなくてはならない。
同好会のプレッシャーを受けながら、任務を受けてきた二人ではあった。
二人でぼそぼそと芯のあるご飯にインスタントカレーをかけて食べていると、突風が吹いてきた。
「あ、洗濯物が飛んじゃうね」敦が言った。
木立にロープを張って干しておいた洗濯物が、あっという間に突風に吹き上げられて宙に舞った。タオルや下着は一瞬飛んで地面に舞い降りたが、一枚の半そでシャツは高く舞い上がって飛んでいる。
二人は立ち上がってシャツを追いかけていった。
白いTシャツはまるで紙飛行機のように水平に飛び、吊橋の下へひらひらと飛んでいってしまった。
「あーあ、川に落ちちゃったよ」
二人で吊橋から下を見下ろすも真っ暗闇があるだけだった。
そのときだった。恭平が言った。
「あ、あれなに?」
「ほら下だよ」
「え? なんだ?」敦も言った。
二人が飛んでいったTシャツを追いかけて吊橋の下を覗き込むと、真っ暗な谷底にはオレンジ色した光が二つ、三つ揺れ動いているではないか。
「おい、なんだあれ、やばいんじゃねえか・・・」
「だから、いったじゃねえか、こんな場所はやばいって」敦が言い出した。
「タカシが言ってたよ、あそこはやめたほうがいいってさ」
「なんでもこのあたりは飛び込み自殺が多いから、やばいって・・・さ」
二人は顔を見合わせて、一目散にテントに飛び込んだ。
「おい、やっぱ、やばいよ、明日帰ろうよ」
「うん、そうだね、今夜も外に出るのはやめよう」
「酒でも飲んで寝ちゃおうよ」
外は漆黒の闇が二人を包み始めていた。ひゅうひゅうという風の音は何者かが泣き叫んでいるようにも聞こえた。
「完」