八月になっても梅雨が明けない夏だった。

六月から延々と連日雨の日が続いてうんざりしていたし、左足のほうも痛みは続いていたが、気分の良い遊びの場面では結構痛みを忘れることもあり、やはり大きな背中の構造的異常がないのであれば、内面的な問題がベースになっているのであろうかと思い始めていた。

そんな憂鬱な気持ちを吹き飛ばすには、はやっぱり痛い足を引きずってでも、毎年出かける釣り旅行に行くしかないと、相棒であるOhme Fly Fishersの三田師範を誘って東北釣行を強行した。

私と相棒のペアは雨男ペアを自他ともに認める関係で、二人で釣りに行くときは天気予報もひっくり返る。

「今日は朝からすっきりと晴れて一日中晴れ間が出るでしょう」なんて朝の天気予報が伝えても、八時に中央高速を北上する頃には土砂降り、なんてことは常である。

そんな訳だから、出発のときになって雨が降っていてもそんなにめげるでもなく、金曜日の午前零時に、立川駅で相棒と待ち合わせた。

 

青梅の自宅から奥多摩街道を走って、立川駅北口に約束の時間に15分遅れて到着すると、彼はいつものようにフライロッドの入ったアルミパイプを2本抱えて、にこにこ顔で待っていた。ケースの大きさからして、珍しく4本繋ぎのパックロッド2本のようだ。

「新調、新調!」などと言って、買ったばかりらしいロッドを見せてくれる。

所沢から大宮バイパスを抜けて、一時間半で東北道の久喜ICに着く。

目指すはここから700km先の岩手県。 一体何時に着くことやら。

相棒は今時珍しく運転免許を持っていない御仁ゆえ、私が全行程の運転手だ。

大体いつもお決まりのことだが、釣りに行くときの往路はやたらにテンションが高い。

全ての問題点は良いことにすり替わる。

今夜の雨だって、「きっと、現地は川の水も豊富で、最高のコンデションに違いない。いつも夏の東北釣行は、川が渇水して干からびて釣りに何なかったもんなあ」とか、「曇り日はなんてたっていいんだ、ピーカンに晴れるとお魚さんの出も悪いかんなあ」

目的地に向かう釣り人の頭の中はグッドサイズの山女魚ちゃん達がライズしている。

そして車の中は調子の良いミュージックで溢れている。

 

真夜中の東北道は不気味に車が少なく、仙台を過ぎると先行車も後続車もない。

なんだかんだと一睡もせずに、一気に120kmの巡航速度で、どしゃ降りの高速道路をひた走り、夜が白む頃には岩手県に入っていた。

 盛岡を過ぎた頃には、ずいぶん空が明るくなってきて、降り続いた雨もあがってきた。

八戸自動車道への分岐点を過ぎた安代ICで高速を下りると、9時を回ったところだった。

ここはあと十分も走ると秋田県に入るところで、南にスキーゲレンデで有名な安比高原がある。今ではAPPI高原といって一躍リゾートになっているが、昔は八幡平(はちまんたい)高原の中の「竜ヶ森」と呼んでいた昔の処刑場があったところで、何もなかったところだ。

国道282号線、通称津軽街道を西に走り、安比高原を走る兄川を目指した。

この一帯は、秋田県能代市で日本海に注ぐ長大河川米代川の上流部に当たり、角館で熊沢川に分離する。 付近一帯には、これらの河川の支流が網の目のように走り回り、釣りのガイドブックではヤマメの宝庫とある。

 

兄畑部落までくると晴れ間が覗いてきた。

「ほらね、晴れと天気予報が言えばどしゃ降りだけど、雨と言えば晴れるものね」

と、妙に納得して、二人でほくそえむ。

さて、雑誌「FLYFishers」で、大ヤマメの釣行記事のあった兄川上流部へと車を進ませ、大きな橋が川を横切るところで車を止め、二人で橋の上から川面を覗く。

と、目が点になった。 雑誌で見た美しい渓相の、そして大ヤマメが生息する谷は、濁流渦巻く暴れ川になっていた。

確かに米代川本流は白濁増水していたが、ここまで上流にくればなんてことはないはず、などとはしゃいでいた僕らは声も出なかった。

おそらく、川の構成からみて、普段は大石が点在するフリーストーンの渓相をしていると思われる川だが、橋桁の真下まで増水して、川幅一杯に濁流が押し寄せてきて、近寄るすべもない。

五万分の一の地図を頼りに、付近の支流を探してあちこち林道を走るが、どこも似たような状況で、楽しみにしていたドライフライで釣り歩けるような支流はありそうもなかった。

それでも、昼前には天気はどんどん回復してきていたが、僕らの頭の中にはどっと重たい雲が広がってきていた。 いつもなら、とっくにさんざんロッドを振って、午前中の遊びは終わりになる時間なのに、いまだ僕らの釣りベストは車中のハンガーにかかったままである。

ま、とにかく腹が減ったので、飯にしようということで、起伏のある芝生周りに、山の中には似つかわしくない高層リゾートホテルやらマンションの間を抜けて行くと、相棒が「あれ、あれ!」と前方を指差す。

見ると、三田師範の大好きな文字「岩魚釣り堀天国」の看板。

そのまま、引き釣り込まれるようにゲートを入って行くと、家族連れで賑わう釣り堀公園であった。 広々とした芝生の広場に、大小の丸池が点在していて、子供たちが貸し竿で虹鱒を釣っている。なんとも、ため息が出る。

いくら釣り堀師範でも、ここでウエダーを履いて、フライロッドを振るほど酔狂ではない。

でも、いつのまにか真っ青に空は晴れ上がって、夏のぎらぎらした太陽が真上にあった。

ようやく夏到来の実感が沸いてきた。

そう、僕らの夏休みなのだ。

 

大きな白樺の木の下の、気持ちの良い木陰のテーブルを陣取って、レストハウスの山菜ざる蕎麦を注文した。

冷たい八幡平高原地ビールをいただく。

「ヒエー、うまい、これがなあ、たまんないのよねえ」師範がつぶやく。

こごみとワラビのおひたしをつまみに、どんどんグラスを開ける。

気がつくと大瓶が3本空になっている。

こうなってくると、気持ちの奥にあった雨雲も、どこかにすっ飛んでいってしまい、またまた、自分達に勝手な、都合の良いストーリー作りに専念する。

「午後は上流の水も引くだろうしさ、なんつっても、雨上がりのスーパーハッチの、夏のイブニングライズは興奮するもんねえ」

「そうそう、流芯の向こうでヒゲナガが飛び出すと、尺ヤマメが、身体全部を出して、バッシャ!とかいってさあ」「うんうん、3番のロッドが折れるほどしなってよお」などなど。

でも、徹夜で一睡もしていない二人である。 午前中の絶望感と、午後の期待感と、高原ビールのおいしさと、昨晩からの疲労困ぱいと、休暇の開放感と、睡魔とがぐちゃぐちゃになって、あたりの情景が徐々に歪んで行く。

そのまま、白樺の大木の根元にビニールシートを広げて、二人で浮浪者のごとく横になる。

深深と生い茂った白樺の葉の間から入道雲が見え隠れし、木漏れ日がちかちかと輝いて、顔の上を気持ちの良い風が吹きぬけて行った。

向こうの釣り堀で騒いでいる子供たちの歓声がだんだんと遠のいていった。

そして、僕らは岩魚が群遊する緑色した深い淵の底へ、ゆっくりと沈んでいった。

 

はっと、目を覚ました。「いっけねえ!」と時計を見る。まだ、4時前でほっとした。

何度も、昼寝して気がつくと真っ暗、という失敗をしているからだ。

相棒を起こして出発する。

秋田県側のほうが雨量が少なかったという情報を頼りに、熊沢川に沿って走る341号線を田沢湖方面に南下する。「兄川がだめなら阿仁川だ!」とかわめきながら、田沢湖に注ぐ玉川ダム周辺の谷を見てみるが、どこも同じような状況で、むしろ午後になって源流帯からの雨水が流れ込んできて、増水に拍車がかかってきているようだ。

 

林道の崖の上から川を見下ろして、ついに結論が出てしまった。

「今日はもうだめだね」

ここにクラブの特攻隊員のO君でもいたなら、「なーに言ってんですかあ、ウエットやニンフで攻めましょうよ!」

とかいって、ずんずん崖を降りていってしまうことになるだろうが、なにしろ、今回はいつものぐうたら釣り師の二人である。すぐに意見は一致する。

 

車に戻って、地図を広げる。

「ここはどこ?」

気がついてみれば、このあたり一帯は東北屈指の大温泉地帯で、温泉場のマークが星屑のように地図上に散らばっている。

 

「よーし!今夜は秘湯に泊まってゆっくりしよう!! 俺の神経痛の湯治だ!」

「賛成、賛成、大賛成!!」と相棒が言う。

「ねえねえ、知ってる? この辺の温泉の露天風呂はなあ、みーんな混浴でねえ、女と男の脱衣所は別々なんだけれどね、風呂はまったくの混浴なの」

「それって、昔そうだったっていう、岩魚の川とおんなじ乗りの話じゃねえの?」

「ちがうって、おまけに最近は秘湯ブームとかいってなあ、東京くんだりから女子大生なんかがツアーを組んできてねえ」

「じょ、女子大生!!  そ、それ、行こう!」

 

昨晩の車中では、この二人が話していたスケジュールは次のようだった…・・

 

「日が沈む前にテントを張ろうよ、イブニングででかいやつを上げたら、一匹はキープしてさ、ムニエルなんかいいかもねえ」

「そうそう、暗くなる前に薪を拾っておかないと焚き火ができないからなあ」

「やっぱ、キャンプは焚き火だよなあ」

「雨が上がって、満点の星空なら最高だねえ」

「いつかみたいに、テントの周りに源氏ホタルが群がってさあ、あんときはきれいだったなあ」

二人の輝いた少年の顔がそこにはあった。

 

しかしながら、林道に停めた車の中には、なんともすっかり中年のおやじが二人座り込んで温泉マークに見入っていた。

 

「よしよし、決定だあ!」

「近くに「乳頭温泉郷」があるじゃない、ここ行こう、TV番組で見たけど、ここはいいらしいぜ、秘湯中の秘湯だぜ」

 

乳頭温泉郷は意外にもすぐそばにあった。 341号線から15分も林道を走ると古びた建物群が出現して、一面に湯煙があがっている。

大きな駐車場の広場には大型バスが何台も停っていて、いまし方着いたバスからぞろぞろ人が降りてくる。

「おい、おい、ジジババばっかりだなあ」

一番前の旅館、というか、プレハブ作りの木賃宿といった風の建物に「案内」と書かれているので、木造りの階段を上がって、受付の窓を開けて聞く。

「今夜泊まりたいんですけど」と切り出すと、係りの女の人が応対に出た。

「すいません、今日はどの旅館も一杯なんですよ、平日なら空いていることもあるけどねえ、今日は土曜日だし」

「え、こんな、田舎なのに・・・・・」

僕らはいつも釣りに行くけど、宿の予約なんかしたことがなく、大体格安で泊まることが常なのになあ、と、いぶかるが、やはり秘湯ブームなのかもしれない。とにかく、一杯であれば致し方がないので、来た道を引き返す。

途中、日当たりの良い広々としたキャンプ場があり、キャンプを張ろうか、と一言二言二人で相談するも、すでに、二人には少年の心は1%も残っておらず、この案はすぐに否決された。

 

次に向かったのは「夏油温泉:げとうおんせん」で、これまた、TV番組で紹介された秘湯中の秘湯といわれている場所である。

 なにしろ、秘湯に行かなければ目的は達成できない。

二人の頭には、裸の女子大生が露天風呂でライズする光景しか浮かんでこない。

341号線を更に南下して、田沢湖町を過ぎ、角館街道から、大曲市、横手市を経由して国道107号線錦秋街道に出て、北上市の方向へ向かう。

夏油温泉は、実は昔行ったことがあった。当時はかなりのラフロードで山奥の湯治場といった記憶があったが、行ってみると、道路も舗装されているし、温泉宿のたたづまいもきれいだ。

しかしながら、ここも満員御礼であっさりと断られ、豊満な女子大生の山女魚達はどこかに逃げていってしまった。

大体が動機不純なオヤジ達の目的はたやすくは成就しない。

ずいぶん距離を走り込んだが、二人はいまだ山女魚にも女子大生にも出会えぬまま、秋田と岩手の県境でおろおろしていた。

「やっぱり、秘湯はだめだよ、大体が一軒宿でキャパシテイがないもんなあ、こうなったら、大きい温泉町へ行こう」

 

すでに日が西へ大きく傾いて、夕焼け雲が夏の空を染めはじめていた。

「早く、今夜の宿を見つけないと、露天風呂どころか、車中泊になっちゃうなあ」

107号線に戻って、北上からまた4号線を北上して、花巻市にでた。

ここにはこの辺で最大規模を誇る「花巻温泉郷」がある。

 

「歓迎 花巻温泉郷」のゲートをくぐると、たくさんの高層の温泉ホテルや、お土産屋が立ち並ぶ温泉街にでた。 ゆっくり進むと、温泉観光案内所の看板のある事務所があるので、ガラス戸を開けて二人で入ってみる。

「今夜泊まりたいんですけど……」観光協会の背広姿の人が、一杯飲んだ赤ら顔で出てきて、「え、今からかい? うーん、今日の土曜日はたいてい埋まっているすなあ」

「こんなずかんじゃ、飯の用意が無理だなあ」

時計を見ると、すでに7時半を回っていて、あたりもすっかり暗くなってきていた。

観光協会の方がいくつかの宿に電話をしてくれたが、全て断られた様で、

「ちょっと無理だなっす」ということになってしまった。

 

「なんてこった、最悪のパターンになってきたなあ」二人でぼやくも、仕方がない。

「最悪、花巻駅前のビジネスホテルにでも泊まるしかないかなあ」などと言い合いながら、車を来た道を引き返した。

さっき入った大きなゲートの温泉側には「またこらっせ、花巻温泉郷」の文字が見える。

「ばかやろう、二度とこねえぞ!」と身勝手な悪態を吐く。

 

すると、 ゲートの柱の横から、突然人影が現れたかと思ったら、車の前に両手を広げて立ちはだかるではないか。

「なんだ、なんだ」、と急ブレーキをかけると、紺の半纏を着た年配の男がにたにた笑って、僕らの運転席を覗き込んだ。

「宿、さがすているんでねえのかい?」

「いやあ、全部断られちゃって、途方に暮れているんですよ」

「俺の旅館に泊まんなよ、いい温泉だよ」

「ほんとですかあ、今からでも食事も大丈夫ですか?」

「うん、うん、でえじょうぶ、でえじょうぶ」

「俺の後から着いてきな、すぐだから」

と、すたすたとゲートの横においてあった白い軽自動車に乗り込むと、急発進してゆく。

「よかったなあ、でも、いくらかなのかも聞かなかったなあ」

「まあ、いいじゃない、せっかくここまできて、ビジネスホテルじゃしゃれになんねえしさ」

軽自動車は、でも、温泉郷とは全く反対の花巻市内の方に向かって走って行く。

「あれえ、ここの温泉じゃないのかなあ」

ゲートから1kmも走ると、右折ウインカーを出して、右側の道に進んで行く。

急に暗い山道になり、上り坂をどんどんスピードを上げて軽自動車は走って行く。

0分も山道を走り込むと、眼下に花巻市街の夜景が広がってきた。

 

「すぐだから」といった割には、あんまりどんどん行くので、不安になった。

接近して、ライトビームを上げ、クラクションを鳴らして、彼の車を止める。

「どこまで行くんですか、もう随分来たけど」

「いやあ、もうすぐだ、あと一つ峠を越えたらすぐだから」

「え、…・・? ところでお宅はなんていう温泉場ですか?」

「たてがわおんせん、だ」

どうも「館川温泉」ということが判明した。

助手席で相棒が地図を調べるも、そんな温泉は乗っていない。

「おい、おい、なんだか、やばくないか?」

「そんなこといったって、ここまで来たんだから、いくっきゃないでしょ」

 

峠をもう一つ越すと集落があって、大きな旧家のような家の前で、おじさんの車は止まった。

玄関から中に入っていって、何か大声で言っている。どうも、「客を案内したぞう」ということらしい。

すごい大きな構えの旅館だが、何やらとっても古い木造建築である。

でも、印象としては決して悪くなく、花巻温泉郷なんかのホテルに比べたら、感じはずっといい。

いかにも山奥の秘湯に来たって感じであり、二人で、広々とした土間や、黒光りした玄関の板間を見回す。

案内してくれたおじさんの説明によると、創業が江戸時代の寛政年間で、200年以上経っている木造3階建てで、修復はしているが、当時に比べれば使える部分は半分以下だという。

確かに、内部は見える所は磨いてあって奇麗だが、裏側などは朽ち果てているのが一目瞭然だ。

 

愛想の良い仲居さんが、僕たちを一階奥の部屋に案内してくれた。

東北弁をしゃべらないので、土地の人ではなそうだ。

良くしゃべる人なので、こちらも調子にのって、東京から寝ないで来たことや、今日あった出来事などを話した。

「今日は、沢山泊まっているんですか?花巻温泉なんか、あれだけ旅館があって、僕らは泊まれなかったんですよ」

「うちですか?まあまあ、ですねえ・・・・」どこか歯切れが悪い。

 

部屋はこじんまりとした和室で、10畳の畳敷きに、窓側に板の間があって、藤の椅子の3点セットがある典型的な宿の部屋である。

正面の窓を開けてみたが、真っ暗で、景色もなにも見えなく、つまらない。

ともあれ、お勧めのお風呂をいただくことにして、浴衣セットを持って部屋を出る。

大変残念ながら、露天風呂もなく、確かに混浴のようではあったが、女子大生の歓声は聞こえようがない雰囲気の宿だ。

 

風呂場は地下にあって、幅が7, 8mもあろうかという、広い長い真っ直ぐな階段を降りきると、桧の香りが香しい大きな風呂場があった。

風呂場に行くときも、複雑に作られた通路を通っていったが、なぜか妙に静まり返っている。風呂には誰も入っていなく、桧作りの大きな湯船には、満々と気持ちの良いお湯が溢れかえっていた。

 

二人で、底の深い檜の湯船に溢れかえる、透明で程良い温度のお湯にどっぷりとつかると、どっと、昨夜からの疲れが体中にあふれ出てきた。

「こりゃあいいねえ」相棒がぼそっと言う。

遠くで、日没後の日暮らしが「カナカナカナ」と鳴いているのが聞こえた。

 

部屋に戻ると、大きな桜細工の和机に料理が広げられていた。

なんとも、さっき聞いた8千円の宿代にしては、豪華で豊富な料理が、大きな机一杯に並べてある。

あれまあ、と感心していると、さっきの仲居さんが現れて「飲み物は?」と聞く。

「ビールと冷酒とじゃんじゃん持ってきて」と頼むと、「OK」とウインクして出て行く。

なんだか乗りの良い女性だ。

さて、宴会だ。仲居さんも座り込ませて、付き合わせる。

「なに、コンパニオンとかいないの?ここらは」

などと、突っ込んでみる。

「なあに、いってんの、この部落には年寄りしかいないでしょうに」

「私で良かったら、今夜来てあげるからさあ!」

と、またまた乗りがいい。

 

それにしても、今日は昼寝を3時間ほどしたとはいえ、東京を出てから、青森県境、秋田県中央部の大曲を回って、また岩手県の花巻まで戻る周回コースを走破した。

こんな強行軍をしたのははじめてであり、その上、全くロッドを出してもおらず、ただただ疲労困ぱいしただけである。

でも、温泉が効いたのかどうか知らぬが、不思議と左足の痛みはなく、気分は久しぶりに上々である。

冷酒を2,3杯やったら、とても座っていられなくなり、ご馳走も半分も手をつけないまま早々に片づけて、お開きとした。

 

相棒は入り口側に、私は窓側のたたき側に平行に床をひいてもらった。

TVがついていて、まだナイターの巨人戦をやっていたが、ふと気がつくと、相棒はスースーと寝息を立てている。

 彼はいつでも私とロングドライブすると、運転手の私に気を遣って、助手席で居眠りしたりしない人なのだ。

 彼も相当に疲れているに違いない。 きっと、尺ヤマメをフライロッドに掛けている夢でも見ているのだろう。

 

TVを消して、窓の外の空気をすうーっと吸ってみる。

風が心地よいので、窓も開け放して、浴衣の袖も捲って、両腕を布団から出したまま、仰向けになって目をつむる。

とっても、静かだ。明日はきっと山女魚と遊ぼう、などと考えているうちに、あっという間に眠りの底について行く感じが、なんとも心地よかった。

 

 

「なんだろう?」 なにかの気配を感じる。

ふうっと、意識が浮いてくる。

誰かが、僕の右の手のひらに触っている。

いや、僕の右の手を、指を、握っては放して、何か問い掛けるような、「こっちを向いてよお」と、誘っているようだ。

 

寝ぼけた意識の中で「なんだあ、あの仲居さんがホントにきちゃったのう?」と一瞬思ったが、いや、違う。 

相手の手は、すごく小さくて、赤ん坊の手か子供の手のように感じる。

なにか、枕元近くで「ごそっごそっ」と、気配がある。

「なんだろう?」  目を開けようとするが、体が重くって、自由にならない。

がんばって、薄目を開けて斜め上に首を回してみた。

 

床の間を背にして、5歳ぐらいのオカッパ頭の女の子が、「ちゃんちゃんこ」のような赤い着物を着て、畳に正座している。

がばっと、上半身を起こして、床の間を凝視してみたが、もうそこには何もいなかった。

 

「何だ?なんだ?何だったんだろう」

枕元の腕時計を取ってみてみると、ちょうど3時で、長針が12を指している。

3時の時報のように、何かの訪問を受けたようだ。

布団の上であぐらをかいて座り込んだまま、すっかり目が覚めてしまった。

隣では相棒がぐうぐう寝ている。

 

ふと、亡くなった目黒の叔父の言葉を思い出した。

叔父は、幼少を秋田で暮らしたが、よく「座敷童子:ざしきわらし」を見たといっていた。

東京目黒に移り住んでからも、寝ていると、床の間に座敷わらしが座っているのをしばしば見ることがあるといっていた。

「こいつは秋田から、俺が連れてきたんだ」とまで言っていた。

子供心に、どういうことなのか理解できなかった。

 

「そうか、こいつが、叔父さんがいつも話してくれた『ざしきわらし』に違いない」

「俺も秋田の血筋だから、歓迎に来てくれたのだろうか」

「叔父さん言っていたっけ」

「座敷童子は、悪霊ではなくて、守り神みたいなものだ。何か危険があるときに、現れて助けてくれるありがたい奴で、幽霊でもなければ、お化けでもないんだ」

何のことか、当時は私も子供だったから、訳が分からなかった。

 

そう思うと何も恐くなくなった。

 いや、もともと、「何!?」とは思ったが、亡霊を見たような恐怖感は、最初から全くなかった。

すっかり、目が覚めてしまった。

また、あいつが来ないかなあ、と思い始めて、右腕の浴衣を思い切り腕まくりして、床の間のほうに、わざわざ腕を伸ばして横になったが、さっぱり寝付かれないかった。

うとうとしているうちに、とうとう明るくなってきてしまって、3時からほとんど眠れなかった。 6時半になって、隣で相棒がごそごそ動き出したので、「ねえねえ」、と話し掛けてみた。

「夕べ、なんか感じなかった?」

「んー?何?」

「いやあ、床の間のとこに座敷童子がでてさあ」

「なあに、それ?」

彼は川崎の人間だから、座敷童子のことは知らないのだろう。

夜半の顛末や、叔父さんの話などを聞かせてやったが、馬鹿にして信じてくれない。

 

頭が少しぼーっとしたが、朝風呂に二人で入ってから、腹が減ったので、食堂に朝食をいただきにいった。

 

食堂には一人だけ先客がいた。ごま塩頭を後ろで結んだおじさんで、関西からオートバイで東北一周しているとのこと。

彼も、あの花巻温泉郷のゲート前で、ここの客引きおっさんの軽自動車に釣り上げられた人のようだ。

何のことはない、この宿の客は僕らと、このイージーライダーおじさんの二組であることが判明した。だから、あの仲居さんもきっと暇だったんだ。

 

あの仲居さんが、味噌汁とご飯を持って登場した。

「あらあ、おはようさん! 夕べはゆっくり休まれましたあ?」

「あのあと、遊びにいったら、二人ともぐうぐう寝ているんだもんねえ」

なんて、相変わらず、テンションが高い。

 

「あのさあ、夕べね、3時頃、枕元に座敷童子が出てねえ、ここはそういうのが出るのかい?」と、私が切り出すと、ばか言っていた顔の表情ががらっと変わった。

「……・・」顔が強張って、何も答えない。

「何かあるな」と思った。

「何よ、なんかあんだろう?」

彼女は、とたんにかがみ込んで、小声になる。

「何?お客さん、どういうのを見たの?」

「いや、ほら、遠野とかに出るという、座敷童子だと思うなあ」

「ふーん」と考え込むような顔をするので、 「だから、どうなんだよお」と、もう一度聞き返してみる。

「うーん、じゃあ、言っちゃうけど、ここはやばいのよお。」

 「あたしね、名古屋からここに来て、ひと月になるんだけれどね、お客さんが次から次から変なこというしね、恐くって夜寝らんないのよう。」

「だから、夕べもお客さん達と騒いでいたかったのねえ。」

 「先だってなんかねえ、夜遅く、お風呂から上がってね、あの地下からの広い階段あるでしょう、あそこで後ろから髪の毛思いっきり誰かに引っ張られて、階段の下まで転がり落ちたのよ。ほら、見てよこのあざ。」

こちらは、朝飯を食うのも忘れて、彼女の話に引き込まれる。

「お客さんの部屋に飾ってある掛け軸とか、鴨居にかかっている絵を見たでしょう?」

「普通、旅館かなんかで、あんな絵とかはまずないよねえ」

「なに、それ?」「掛け軸は何だったかなあ?夕べは疲れていて、それどころじゃなかったから、気がつかなかったなあ」

と、二人で顔を見合わす。

「え、見てないの? 昔の絵巻きかなんか知らないけど、包丁振りかざして、血まみれ男の絵とかさあ、幽霊の掛け軸まで飾ってあんのよう!」

「それにさあ、廊下のガラスケースの人形、 ああ、いやだ!」

「ここの旅館はねえ、ちょっとおかしいのよねえ。」

「確かに昔の建物だから、いろいろあったのかもしれないしね。 やっぱり出るらしいのね。」

 「だから、魔除けって言うのかしら、あんな物を並べ始めたようなのね。」

 「でもねえ、一応旅館やっているんだからねえ。」

「あたしも知らなかったんだけれども、この辺じゃ有名でね。だから、家族連れとか、繰り返しにくる客なんか、いりゃしないよねえ。」

「昔、心中もあったって言うしさあ、もうあたしね、ここ明日でやめんのよ、気持ち悪くって」

なんだ、なんだ、そんなことは気がつかなんだぞ。 朝食も喉を通らず、廊下を引き返すと、確かに、廊下の隅々にガラスケースがあって、中にはぎょっとするような、大小の市松人形達が冷たい表情でこちらをにらんでいた。

そして、僕らの部屋の掛け軸は、なんと幽霊のような絵柄をあしらった日本画の掛け軸で、欄間に掛けられた絵は、「髪を振り乱した血まみれ白装束の女を、仁王様のような大男が、出刃包丁を持って、追いかけの図」であり、唖然とした。

「こ、こりゃあ、昨日は気がつかなかったなあ、夕べこれを見つけていたら、気持ち悪くて逃げ出していたよなあ」

と、相棒がため息交じりに言う。

「うーん、確かにこれはないわなあ、普通の旅館には」と私。

なにしろ、昨夜は、気持ちの良い桧風呂とご馳走で、すっかり気分が良くって、全くこんな気持ち悪さは二人とも皆目感じなかったのは事実である。

このガラスケースの市松人形を夕べ見ていたなら、あのオカッパ頭の座敷童子の夢を見るというのも自然ではあるかもしれないが、全く夕べはこの廊下も通らなかったし、この宿で、不気味とか、何か出そうだとか、という感覚はまるでなかったのは事実で、二人で「この宿は不気味だよなあ」といった話のたぐいも、夕べは一切しなかったから、潜在意識は全くない。

それに、あの3時の訪問者は、絶対に夢ではなかった。

明るくなってみれば、窓のすぐ目の前は断崖で、「こんな部屋ありかよ!」、と思わざるを得ない。 夕べは窓も開け放して寝てしまったし、何か「魔物」が僕らを狙っていたのかもしれない。

あの座敷童子は、きっとそいつらから、「神通力」で僕らを守るために、現れたに違いない。

まだ、私の指先に、あの子の小さい手の感触とぬくもりが残っていた。

私の手を握って、一晩中見守ってくれたのだろう。

そう思うと、無性にうれしくて胸が熱くなった。

外に出ると、朝の澄み切った山の空気が、なんとも清々しかった。

今日こそは、緑の谷で山女魚ちゃんに出会えそうな、そんな気がした。





午前三時の訪問者