「帰り道」 完結編

−1−

 

 席から顔をあげてオフィスの柱にある時計を見ると、8時を回ったところだった。

 もう、この時間になるとオフィスは静まり返って、芝山の机の上の天井の明かりがついているだけだった。

 芝山 稔は都心にあるこの会社の課長職について残業手当が剥奪されてからもう2年になる。同僚の管理職はとっくに帰ってしまっても相変わらず、一円にもならない残業を一人残ってこつこつする毎日だった。 きっと性格なのだろう、決して仕事が好きなわけでも愛社精神が旺盛なわけでもない。 なんとなく全てが惰性で流れてきた人生だった。

やっと腰を上げると、持病の腰痛が痛んだ。

「いててて・・・」といつものように独り言をつぶやいて立ち上がり、机の上を片付け始める。

会社の玄関を出ると、都会のむっと湿った熱風のようなビル風が芝山を襲ってきた。

都会の雑踏に埋まりながら駅の方向に歩いてゆく。

東京と言う街はなんでこんなに孤独なんだろうと、芝山はいつも思っていた。これだけ大勢の人が歩いていても誰一人として顔見知りはいない。いや、顔見知りに出会うということは宝くじに当たるほどの確率なのかもしれない。

昔、芝山の田舎の母が上京して、渋谷の道元坂を一緒に歩いたとき、「今日はどこのお祭りがあるんだい?」と尋ねられたことをふっと思い出した。

村の鎮守様の祭礼なら、顔なじみの皆がそろって坂道を降りてくるのだが、渋谷の道玄坂の駅へ向かう坂道は見知らぬ人々が黙々と駅へ向かっているのであった。

芝山は代々木上原の駅前で一瞬躊躇したが、やっぱりいつものように毎日入る立ち飲み屋の暖簾をくぐった。

いつものように枝豆を注文して、生ビールの中ジョッキを飲み干してから、冷酒を一杯だけ飲む。柴山も自分自身で、なんて変化のない男なんだと自問自答した。 

こんなに毎日決まった時間に同じ店に通っても、誰も顔なじみがいなかった。

店の店員は毎日決まった時間にやってくるこのサラリーマンを勿論認識していたが、なんどか声をかけてもほとんど返事がない男だったから、きっと考え事をしながら邪魔されないでひとりで飲むのが好きなのだろうと、以来声をかける事をしなかった。

柴山はその決まったコースを飲み終えると店を出た。

代々木上原の駅から小田急線に乗る。ちょっとは酔っていたのかも知れないが、もともと酒は強いほうだし、長距離通勤の電車に乗っている間に大体覚めてしまっているから、酔っ払いで帰宅ということはまずない。

相模大野から小田急江ノ島線に乗り換えて、自宅のある鶴間の駅まで着くのになんだかんだと都心からは一時間はかかってしまう。朝はまだ直通があるのでいいが、帰りは時間がかかる上、車内は酔っ払いで溢れているから、自分も一杯やらないととても帰れない。

まあ、どっちかと言うと帰宅拒否症候群なのかもしれないと、芝山は、マンネリ化などという言葉をとっくに通り越した25年間の夫婦生活を振り返っていた。

 

−2−

 

 小田急線の鶴間駅に着いたのは十時半時を回っていた。

まあ、芝山にとってはそんなに遅い時間でもない。

都心に比べれば遥かに快適な環境で、いつもなら、鶴間の駅を降り立ったときにはさわやかな涼風が舞い込んでくるのであるが、今夜はなんだか蒸し暑いというより、熱い風が吹き付けているような夜だった。

いつもの坂道を登ってゆく。

「全く、こんな時間にこの真っ暗な坂道を歩いて上って行くやつなんかいりゃあしない」

芝山は毎晩同じ事を言いながら坂道を登って行く。

理由は簡単だ。この坂の上には斜面にへばりつくように芝山の家を含めた10軒の家しかないからだ。 登りきったところには綺麗な花の公園があるので、日中はなかなかの観光スポットで賑わうところだが、夜ともなれば訪れる人はいない。

車だって、わざわざこの道を迂回しながら通る必要性は全くない。

 たまに公園前の広場に止まっている車なんかは大体カップルが車内で抱き合っているだけだ。ましてや、この時間になると人も車もいやしない。

山に住む狸が道の中央でうずくまっているのを芝山は何度か見たことはある。やつらは夜行性だ。狐はいないが、テンとかリスとか、狸の家族とかは結構この近所には生息している。

 鶴間駅から線路沿いの路地を隣駅の大和駅方向に100mほど行き、小さな花屋の角を左に曲がり、小田急線をまたぐ車一台がやっと通れるぐらいのブリッジを渡ると、道は右に直角に曲がるが、その正面にははやらない居酒屋があり、そこから急な登り坂になる。

 左側に市営の体育館とテニスコートがあり、夜も8時ごろまでは練習する人で煌々と明かりがついて賑わっているが、9時過ぎるととたんに真っ暗になってしまうところである。

 

この坂道の嫌なところは、最初のカーブを左に曲がった右側の谷底は墓地だからだ。

本当にすり鉢の底のような100メートル四方ぐらいの場所にお墓がぎっしりとある。道路からは急斜面で落差が50メートルもあるような谷底なので、夜はよくは見えない。 というより、見ないようにしている。もともと一昔前まではこんなところに人家もなかった場所だ。

芝山の成人した二人の娘も帰宅が遅いが、夜は絶対にこの道は通らないと言っている。彼女達は一つ先の大和駅から商店街の道を通って山の反対側から帰ってくる。

でも、距離はこの坂を通るのに比べると2倍はある。芝山は毎晩、最短であるこの道を帰る。気にしなければどうということはないが、気にすると「怖ーい」道なのである。

柴山の住む家はこの左カーブを回りきってから、さらに右カーブを登らなければならない。通称「鶴間のイロハ坂」を上りきらないと家にたどり着かないのである。

昔からこの辺に住んでいる人の話だと、この谷の底に「ぽーぽー」と青白い光が見えるときがあるとか、所謂「ひとだま」ってやつだろうか・・・・

 

今夜も体育館もテニスコートもすっかり明かりが消えてしまっていて、辺りは真っ暗になっていた。「いつもより更に暗いなあ」、と思ったら、登りきった辺りの街灯が点いていない。球が切れたのだろうか。

生暖かい風が頬をなぜてきていた。

最初の直線登り坂を途中まで歩いてきたとき、芝山は息を切らせた。歳を感じた。腰も足も痛かった。立ち止まり、前かがみになり、両手を両膝について下を向いて「ふー」とため息をついた。

そして、身体を「よいしょ」と起こして、前方をふと見たそのときだった・・・・

墓地の谷底が右手にある最初の坂道の頂上付近の道路の中央にそいつはいた。

芝山が立っているところから50メートルと離れていない。

イロハ坂は道幅が6mはある広い道路だが、その道の真ん中の中央分離線あたりに、そいつはつっ立って動かず、こちらを凝視しているではないか・・・

真っ暗闇の中に白装束がくっきりと認識できる。

白い着物の裾がひらひらと風に舞っている。

頭の辺りが「ぼー」と球状に光っているではないか!!

一瞬、芝山の息が止まった。心臓も止まりそうだった・・

「こ、これは、本物だ〜〜!!」

幻覚でも夢でもない、間違いなく本物だア・・・・芝山は狼狽した。

毎晩ここは何物かが出るのではないかという強迫観念に襲われながら歩いてきた道だったが、今夜はとうとう出てしまった、と芝山は焦った。

50メートル先の行く手を亡霊がとうせんぼしているのだ。

右手の谷底の墓場から這い上がって来たに違いない・・・

 

よく見てみる。 そいつは30cmぐらい宙を浮いている。

あ、足がない。

地面近くをなにか小さく光るものが二つ飛び回っている。

と、そいつは突然「かくっ」と小さくなった。 道の真ん中にしゃがみこんだようだ。

と、道に両手を付いて、四つん這いになって、辺りを這いずり回り始めた。

一体何をしているんだろうか?

芝山の頭の中は真っ白になり、何が今目の前で起きているのか全く理解できない。ただただ恐ろしいほどの恐怖感のみが全身を包み、両腕に鳥肌が立った。

やがて、そいつは呆然と立ちすくむ芝山を睨み付け、そして向かってくるではないか。

                    

「ぎゃーーーーーーー!!!」

芝山は腰が砕けて、その場にへたり込んでしまった。

 

−3−

 

秋川よしこは、そろそろお風呂に入って休もうかと支度をしていると、亭主の秋川和也がふすまを開けて、隣の和室から浴衣姿で起きだして来た。

和也、よしこの夫婦は共に70も半ばの老夫婦で、二人の子供達はとっくに自宅を出て独立してしまい、今は二人だけの年金生活である。

夫婦は毎日早々5時にはきまって夕食を済ませるが、和也は晩酌の1合の酒を飲んだだけで、食事が終わるとすぐに寝てしまう。

でも、いつもその後よしこがTVを消して寝ようとする11時頃になると、起き出してくるのであった。

「あら、おとうさん、今夜も行くんですか? いい加減にしないとまたご近所さんから言われますよ」

「いや、デイックがほら、うるさいんだよ、連れてゆかないと納得しないよ、こいつは」

「だったら、もっと早い時間に連れてゆけばいいでしょうに・・・まったく、こんな時間に行かなくったって・・・・・」

「いや、今頃の時間だとようやく涼しくなって、デイックも喜んでいるんだよ・・・なあ、デイック!」

「んっじゃ、ちょっといってくるわ」

「ちょっと、ちょっと、おとうさん、寝巻きだけは着替えていってくださいよ!

それから、ゴム長もやめてくださいよ!!」

「まったく、うるせえばあさんだねえ・・・ねえ、デイック!」

と、和也は目を細めて、黒ラブラドールの愛犬「デイック」に話しかけ、頭をなぜる。

大型だけれども優しい顔をしたデイックは、二人にはかけがえのない家族である。 

「行こうか?」と和也が言うと、ぱたぱたと尾っぽを振って喜びを全身で現す。

和也は見事なほどにぴかぴか光った禿頭を両手で「ぱっし」と叩いて眠気を覚ますと、いつものように、乾電池の入ったカンテラをその光り輝くおでこにベルトでしっかりと括りつけ、真っ黒なゴム長に足を突っ込んで、玄関戸をあけて、外に出ようとする。

 

「ちょっと、ちょっと、おとうさん! うんち袋は持ったの?!」

「デイックは必ず道の真ん中でウンチするから、ちゃんと取ってきてくださいよ!」

「ねえ、おとうさん、聞いてるの!」

「デイックは真っ黒だから、夜は向こうからは見えないからね、車に気をつけてくださいよ」

「この前だって、ほら、デイックのガールフレンドの、黒ラブちゃんのなんてたっけ、そうそう、ピーチちゃんのとこの斉藤さんのご主人だって言ってましたよ」

「ねえ、聞いてるの? ちょっと、おとうさんってば・・・・・」

 

よしこの声が後ろから追いかけてきたが、和也は全く聞き流して、夜風がひんやりと心地よくなった山の公園のほうにデイックと歩いていった。

 

「完」