昭和56年にNHKで放映された「金山伝説のある村」



気がつくと、あたり一面をヒグラシの声が埋め尽くして、長い夏の一日が終わろうとしていた。その金鉱跡は、真昼岳の麓の谷合にあって、親戚宅にはそれらしい絵地図も残ってはいたが、数十年来だれも訪れておらず、探索は困難を極めた。

我々は朝霧に包まれた麓の村をトラックに乗り込んで出発したが、昔の作業道らしき道は背丈を越す熊笹が行く手をはばみ、車を乗り捨ててからすでに八時間がたっていた。

ほぼ探索を諦めかけていた夕暮れ近くになって、ようやく現場への目印となる、かつて鉱夫が選鉱に使っていたといわれる小さな谷川の流れに出た。

岩魚が走り回る沢を上り切ると、突然視界が開け、石畳の広場が出現した。

広場中央には夏草に埋もれて眠るように、苔むした小さな碑がひとつ建っていた。

石碑は落盤事故犠牲者のための慰霊碑で、父が五十年前の幼年時に訪れたときの記憶に比べてはるかに小さなものであったが、裏面には建立者である曾祖父の名と家紋の九曜星がはっきりと刻まれていた。坑道は広場正面の斜面にV字状に二本あって、入り口こそ崩れてはいたが、石英粗面岩の岩盤を丹念にくり抜いて山中深く伸びていた。

父が、危ないから奥へ入るなと言ったが、どうしても中を見てみたかった。

百年の時を経た素掘りの金鉱は、人一人がやっと歩けるほどだったが、ひんやりとして当時のままに時が止まっているのを感じた。

私の本籍は、近年まで秋田県中央部の大仙市(旧大曲市)に程近い秋田県仙北郡千畑村(現美郷町)という寒村にあったが、父ですら生まれも育ちも全く縁がないこの地に本籍をずっと置いていたのには、ひとつのこだわりがあった。

私の先祖は、平安時代から奥羽地方に君臨し、平家の流れをくむ「戸沢氏」の末裔であったが、戦国時代に敗走して流れ着いた残党が、江戸時代初頭から代々戸澤三七を名乗り、見渡す限りの田地田畑を所有し、名字帯刀を許されたこの地の地頭であった。

私の曾祖父にあたる第八代戸澤三七は幕末の動乱期に生まれたが、探究心と野心にあふれた男だったと聞く。彼は明治の時代になってから、真昼岳の麓にある自分の持ち山である、通称「紫山」に目をつけ、一族の反対を押し切って金発掘事業を始めた。

もとより、この地には金にまつわる伝説が古くからあり、源義経が落ち延びて金を掘ったというような荒唐無稽な言い伝えまであったが、実際に近年まで何個所かの金鉱山が稼動していた土地でもある。

三七は金鉱発掘に寝食を忘れて没頭した。自ら鉱夫の陣頭指揮をとり、山に入ったまま何ヶ月も家に戻らず、なにかにとりつかれたかのように、膨大な専門書に囲まれて、ひたすら山から出てくる鉱物の分析と研究をしていたという。

最初は少し金が出たらしいが、その後はかばかしくなく、所有地を切り売りしながら二十年余、鉱夫を使って掘りつづけたが、相次いだ落盤事故の補償費も重く、財産の全てを失っても金鉱脈にはたどり着かなかったという。

一説には、お人よしの性格の三七が東京からやってきた「ヤマ師」に騙されたという話もあったが、私はそうは思いたくない。彼はただ闇雲に山を掘ったのではなく、科学的根拠と独自の研究に基づき、強い信念をもって発掘事業を続けたのだった。

それはもはや一攫千金が目的ではなく、彼の男のプライドをかけた闘いでもあった。

金山探検の翌日、父と三七爺さんの墓参りに出かけた。戸澤家の墓所は広大で、歴代三七の立派な墓石がひとつひとつ並んでいたが、八代三七の墓石は見当たらなかった。

親戚筋の長老が指をさして教えてくれた曽祖父が眠る場所は、一族の墓所からずいぶんと離れたところで墓石も無く、アカシアの大木が静かに梢を揺らしているだけだった。

前出の私の旧本籍は八代三七の墓所である。

この三七金山の話は、子供のころから父におとぎ話のように、繰り返し何度も聞かされていたが、私が大学一年の夏休みに、父を誘って曾祖父の夢の残骸を探しにいった。

もうずいぶんと昔のことである。

私は戸澤家の直系ではあるが、この地を踏んだのは後にも先にもあの金山探検の夏だけである。三七が金発掘事業に失敗して没落すると、一族からの誹りを受け、家族離散し、今ではわずかな遠縁筋が千畑村に住んでいるのみである

実は、父自身も祖父である三七爺さんには逢ったことが無く、後に聞き伝えに祖父の人物像を知ったという。というのも、三七の嫡男であった私の祖父戸澤久治も、また三七の事業失敗をひどく嘆き、第九代三七を継ぐことなく、追われるように秋田を離れて関西地方に転出し教職につき、私の父はそこで生まれたからである。しかしながら、久冶は父三七の死後、三七の想いを理解したのか千畑村に戻り、地元の中学の校長を務めた。

千畑中学校の校長室に飾られた歴代校長の写真の中に祖父の名前を見つけて感慨深かったことが思い出される。

一家凋落の惨状を直接は知らない父の三七爺さんに対する思い入れは強く、大学では電気化学を学び、冶金工学を研究した。また、父の弟である私の叔父は鉱山学を専攻し、三七の孫兄弟で力を合わせて祖父の夢の続きを見ようとしていたようだった。二人の夢を戦争という障害が阻んでしまったが、父は見知らぬ祖父三七の生き様に憧憬を抱き、現代の錬金術とも言うべき技術研究畑に一生を捧げた。私自身もまた父の背中を見て育ち、技術屋となった。私の身体の中にも四代続いたあの三七爺さんの血が流れているのだろう。

その父もすでに他界してしまったが、最近、半導体製造装置を研究開発して試験したとき、真空蒸着釜の中で放電して立ちのぼる、金薄膜生成のための紫色に輝く金イオンプラズマの光を見て、遠い夏の日の風景に重なるように、亡き父の言葉が耳奥によみがえった。

「三七爺さんの『紫山』の名の所以は、山に太陽が沈むとき、山に眠る金鉱脈が紫色のイオンを空中に放ち、山の稜線を紫色に染めることにある」

あの夏の帰り道、ちょうど紫山に夕陽が揺らめきながら沈もうとしていたときだった。父はそういって、金イオンの輝きが紫色であることを私に説明すると、黙り込んで山を見つめていた。私も両手をかざして山を振りかえってみたが、山並みを真っ赤に染めた夕焼けが眩しいほどに美しいだけだった。

 

この三七金山は、後に秋田のNHKテレビで取材され、金鉱跡も放映された経緯がある。千畑の郷土資料館には記録も残されていると聞いた。

金鉱跡探検のあの夏の日からすでにまた半世紀近くのときが過ぎ、三七金山は伝説となってしまったが、紫山近在は今でも変わることのない奥深い山中にあって、ひっそりと佇むあの苔むした石碑が、廃坑と三七爺さんの夢を見守ってくれているに違いない。

いまや完全に死語となってしまった男のロマンも、明治という舞台背景には似合っていたのかもしれない。彼は金山で巨富を築くことはできなかったが、ひたむきな信念と情熱は、現代人に失われつつあるものではなかろうか。

子孫の私に彼を責めるものは何もない。薄暗い廃坑にそっと足を踏み入れたとき、ひい爺さんの熱い想いが伝わってきたような気がしただけである。

しかしながら、人生もまた一生が金山掘のようである。長い道程の中で、時には金塊を得、時には挫折する。ひとは金を掘る事をやめてしまったとき、その人生はつまらないものになってしまうのではなかろうか。


金山伝説

(遠い夏の日)