煙草

梅川は今夜も駅からいつもとは違う道を帰ってきた。

このアパートに引っ越してきてようやく一週間が経ったばかりだから、駅から帰る道順は毎日のように変わる。まだ理想的な道順が見つかっていないのだ。

職場のある渋谷からJR山手線で五反田駅に出て、東急池上線に乗り換え、十分ほどでたどり着く御嶽山(おんたけさん)という小さなが駅が梅川の新しいアパートのアクセス駅である。

東西に長い東京都の南側は、東京湾に注ぐ多摩川の流れが東京都と神奈川県を分離していて、世田谷区、目黒区、品川区、大田区といった区が東京湾に向かって広がっている。

この地区にはJR渋谷駅を始点とする東急東横線、東急田園都市線をはじめ多くの東急電鉄の路線が走っている。

東横線、田園都市線が神奈川県のベッドタウンから都心へと、勤め人を大量輸送する主要幹線とすると、渋谷駅と同じJR山手線の駅である目黒駅から出る東急目黒線、五反田駅からの東急池上線、そしてこの二路線を横断する東急大井町線は、多摩川を渡って神奈川県まで越境しない路線であり、東京都大田区内で路線が帰結する東京のローカル線とも言える。

東急池上線は、JR五反田駅を起点として14の駅を通過してJR京浜東北線の蒲田駅までの全長わずか10kmの電車路線であり、4両編成で走る電車も朝晩のラッシュ時でさえそうは混雑しない。

「御嶽山」という大都会にはなんだか馴染まない名前の駅は大田区の中央部にあって、都心にも近いが、随分と下町である。

 

梅川哲也は、業界中堅のソフトウエア作成会社のエンジニアである。

地方の工業高校を卒業して上京し、一年間は川崎にある家電メーカーの製品組み立てラインで働いていたが、元来コンピューターが好きで、ソフトもハード得意だったから、思い切ってその会社を退社し、神田にある「東京コンピューター学園」という専門学校に通いながら請け負いソフトのプログラマーをやっていた。

昨年この専門学校を卒業したのを契機に、以前から誘いのあった今のソフト会社に入社したのであった。

今日は一ヵ月かけて作った自動機用の大型制御ソフトを客先に納入して、動作も十二分に確認し、先方の社長からもお褒めとねぎらいの言葉を戴き、高揚した気分で早々帰ってきた。

このところ連日徹夜状況で、二、三日ろくに寝ていない。

ソフトウエアの設計開発は個人能力によるところが大きく、出来高勝負というか請負的な契約になっていることが多い。

梅川の場合も毎日決まった時間で拘束される社員ではなく、給与は最低限だけが保証されているだけで、基本的には「歩合制」になっている。つまりは「結果」だけが勝負の「必殺請負仕事人」である。 結果を出さなければ、会社側が解雇しなくても本人の収入が無くなるので、辞めざるを得ない契約であるが、逆に評判がよければ、引っ張りだこになって、仕事は次から次から舞い込むのである。

そういったことから、決まった時間に出社するわけでもなく、また、休みも不定期、つまりは本人次第ということである。

一見気楽なように見えるけれども、非常に不規則な日常であり、若いときにしか出来ない業ともいえる。

梅川はこういった業界の中でも新人ではあるが、立て続けに「いい仕事」を完成させたことからも社内外の評判はすこぶるよかった。

 

「今夜はビールでも呑んで早く寝よう、明日は遅出だし、ゆっくりしよう」

そんな事を思いながら、商店街を抜けて路地を左折する。

「こっちのほうが多分近道のはず・・」などと思いながら、ジーンズのポケットから煙草の箱を取り出し、マイルドセブンを一本引き抜いて火をつける。

ふーっと煙を吐き出すと、このところの疲れが思い出したかのようにやってきた。

迷路のような細い路地を進むと、突き当たりはちょっと広くなっていて、二町目の公民館があった。

板壁の白いペンキがあちこち剥がれ落ちた二階建ての木造で、緑色に錆びた青銅板葺きの屋根が大昔の小学校を思わせる随分古びた公民館だが、この街にはもっともだといった感じの建物である。

手前の舗装もしていない砂利敷きの駐車場にキャンバステントが張ってあり、テントの両脇に大きな提灯が二つ柱に支えられている。テントの中のテーブルに向かってたくさんの人が行列をしている。

どうやら、通夜のようだ。 町内のどなたかがお亡くなりになったのだろう。

「この土地の人間じゃあないから関係ないし、正直言って嫌なところを通っちゃったなあ・」と梅川は思った。

下を向いて通り過ぎ、公民館の角の路地を右折しようとすると、角に誰か立っていた。

白っぽい浴衣のようなものを着た老人で、うつろな目をして公民館の方向を呆然として見ている。

ささっと通り抜けようとしたときだった。

「もしもし、すみません」

その老人が梅川に声をかけた。

「は? なんでしょうか?」

「あのう・・・大変恐縮なんですが・・・・あのう・・・」

「はあ? なんですか?」

「あのう・・・ちょと火を貸していただけないでしょうかねえ・・・」

「ああ、いいですよ」

と言って、梅川はくわえ煙草のまま、ジーンズのポケットからシルバーのジッポを出して、差し出す。

「あのう・・・」

「は? なんですか?」

「いや・・・良く考えたら、私ね、煙草もっていなかった・・・・・・・」

全く、ぼけ老人じゃねえか・・・・めんどうくさくなって、梅川は

「これでよかったらどうぞ」

と言って、マイルドセブンの箱から一本を少し引き出して、老人に薦めた。

老人は、とてもうれしそうな表情になり、

「いやあ、ありがたい、すみませんねえ」と言う。

マイルドセブンをくわえた唇になぜか色がない。

ジッポをこすってやって火を近づけると、老人の顔は随分と蒼白である。

あんまり具合が良くなさそうだった。

「煙草なんか吸って、大丈夫なんですか?」

哲也は心配になって、思わず尋ねた。

老人は一気に吸い込んで、ふーっと紫色した煙を吐き出した。

「いやあ、美味い・・・」蒼白な顔面の目が細くなった。

「いやあ、ひさしぶりだあ・・・」

なんだか、誰に対して喋っているのかわからない目線なので、ま、とにかく早々に引き上げたい。

「じゃあ、おやすみなさい」

といって、梅川はその場を去った。

 

翌日は昼前まで現場に行けばよい手はずだったから、梅川はゆっくり起きだして、正午前にアパートを出て、駅へ向かった。

また、道順がわからなくなって、適当な方向に歩いていった。

駅前の商店街の路地はまるで迷路で、昼と夜の顔は全く違う。むしろ夜のほうが飲食店の明かりが道しるべになるが、昼間は方向感覚を失う。

角を曲がると、夕べの公民館前の広場に出てしまった。

「いけね・・・」と梅川は思った。

ちょうど葬儀が終わって、出棺の場所に出くわしてしまったからだ。

広場には喪服の人が一杯いて、更に公民館の中からも人がどんどん出てくる。前へ進むことも出来ない。

先頭の喪主と思われる男性が故人の遺影を持ってこちらに進んできた。

皆が合掌する。知らん振りも出来ないので、梅川も他人にまぎれて合掌する。

男が抱えた写真の顔を見て、梅川は全身が凍りついた。

こけた頬、八の字に下がった眉毛、くの字に折れた鼻すじ、そして特徴ある白髪の頭・・・

黒いリボンで包まれた遺影の顔は、間違いなく、昨夜の煙草の老人の顔だった。

「昨日の老人は、自分の通夜を陰から見ていたんだ・・・」

梅川はミステリー小説が好きで、こんな話の小説は何度も読んだから、あまり驚くでもなく、その写真に見入っていた。

「そういうことって、やっぱりあるんだ・・・」

梅川は思った。

霊能力を持っている人はそういった体験をすることが多いという。 梅川は過去にもそんな不思議な体験をしたことが二度ほどあった。 一度目は、梅川が東京のアパートで徹夜で作業していたときに祖父が郷里で亡くなったときだった。 気のせいかと思っていたが、その晩、窓の外から自分の名前を呼ばれたような気がした。

翌朝祖父が深夜に亡くなったとの知らせが郷里から届いたのだった。

二度目は高校の友人がオートバイ事故で亡くなったときだった。 このときもなんだかその友人のことが気になって胸騒ぎがした事を覚えている。

「俺は霊能力が高いのかもしれない」

「煙草をあげて嬉しそうだったから、俺を恨んで出てくることもないだろう・・・」

などと、妙に呑気な事を頭がよぎった。

 

あの日あったことを梅川は誰にも言わなかった。恋人の文江にも黙っていた。こんな話をしたところで、面白くもないし、不気味がられるだけだ。

でも、あの晩、公民館の角に立っていたあの煙草の老人と亡くなった人物は、間違いなく同一人物であることに梅川は確信を持っていた。そう思っているだけに、誰にも話すことが出来なかった。

それから一ヶ月が経ち、梅川は新しい仕事を抱え込んで、また不規則で寝不足な日々が続いていた。もうすっかりあの晩あったことなど忘れていた。

梅川の仕事は、ノートパソコン一台あれば作業の場所を選ばない。

極端な話、電車の中でもアイデアがひらめいたらノートパソコンをすかさず開いて、思いついた内容をプログラムに書き込むことはしばしばだった。

基本的に会社で作業をすることにはなっていたが、なんだか職場はがやがやと落ち着かなく、職場で作業することは殆どない。でも、週のうち最低でも2日は出社しなければならないルールがあったし、他のソフトウエアとの連結を検証しなければならないときが多々あるから、そのときは職場で作業をした。

自宅のアパートで作業をするのは追い込みのときだけだ。通常はやっぱり帰宅してしまうと気持ちが緩んで、さっぱり仕事が手に付かないのが普通だった。

一日のうちで一番長くいて作業をするのは、職場でも自宅でもなく、ファミリーレストランか喫茶店だった。

この池上線沿いにある下町に越してきてから、居心地のよい場所を探していろいろ店を覗いたが、梅川が気に入ったところはなかなか見つからなかった。

駅前のスターバックスコーヒーは、慌しいサラリーマンやOLが入れ替わり立ち代りやってきた。唯一長時間座れる席は窓際のカウンター席で、止まり木の木製の椅子だから、一時間も座っていると尻が痛くなってくる。 

一応二階席は喫煙席だが、ここも慌しい人たちが立て続けに煙草を吸いたいだけ吸って、ばたばたと帰って行くから、常に煙が充満して、まるで「ナチスのガス室」のようであると梅川は思っていた。とてもゆっくり煙草をくゆらせながら仕事が出来るようなところではなかった。

自分はヘビースモーカーなのに、他人が吐き出す煙はとことん嫌いなのである。

最近はどこにいっても禁煙、禁煙で、「煙草吸い」は嫌われる。

都心の路上でくわえ煙草なんかをしようものなら、すかさず「罰金隊」が飛んでくる。

この下町の駅近くに越してきたのは、都心のような喧騒がなく、くわえ煙草で駅前通りを歩いても違和感がないところが気に入ったからだった。

 

その日の夕方は御嶽山駅を降りてアパートに帰ろうとはしたものの、梅川は相変わらず違った路地に踏み込んだ。

自分自身の方向音痴さ加減につくづく感心した。

まだ、家路を急ぐ勤め人達が駅から吐き出されて来る時間ではなかった。

歩く人もいないし、陽も当たらないようなビルの北側に埋まった路地だった。

でも、路地の両脇にはぽつんぽつんと小さな店がある。

誰も買わないような草履やサンダルが並んだ履物屋、埃が被ったアルマイトのやかんが置いてある金物屋、小さな豆腐屋・・

共通していえることは、どの店も老人が店番していることだった。

ふと梅川の目に留まったのは、まるで明治時代にタイムスリップしたような佇まいの喫茶店だった。

古びたランプシェードが軒からぶら下がっており、木枠の窓は小さく仕切られているが、良く見ると凹凸がはっきりした高級型ガラスが使われている。入り口のドアは重厚な木製で、「ショパン」という店名が書かれたボードがそのドアの真ん中にぶら下がっている。

真鍮の飾りドアノブを押して重たいマホガニーのドアを開けると、中はこれまたロンドンのはずれの街角にあるような古めかしい飴色の家具で埋まった世界だった。

その室内にはなにか梅川の気持ちをほっとさせるようなものが充満していた。

梅川は窓側の席に座わった。

良く磨きこまれた黒光りする木の床からはオイルの匂いがかすかにして、ショパンかどうか知らないが、クラッシックのピアノ曲が低い音で流れているのに気がついた。

「いらっしゃいませ」

蝶ネクタイにベージュのツイードの上着を着て、丸いお盆に水のグラスを乗せて、老いたマスターが奥のカウンターから出てきた。

天井から床まで届く大型の振り子時計、黒いラッパをもった蓄音機、バカラのランプ、こげ茶色のスタンドピアノ・・・梅川はあまりにも店内に興味を引くものが置いてあるので、見回すばかりで、マスターがコツコツと小さな靴音をさせながらゆっくりとやってきたことに気がつかなかった。

「おや、お久しぶりでございますね」

「先月通夜のときに煙草を下さったかたですね」

年老いたマスターは、そういった。

「え!」

梅川は視線をマスターに合わせた。

忘れもしない、特徴ある鼻と眉毛と白髪の頭が目の前にあった。

「え!」

「あ、あなたは・・・」

梅川が驚いた顔をするのを気にせず、マスターは言葉を続けた。

「あの時はありがとうございました」

「兄貴が突然亡くなって、わたしもかなりショックだったんですよ」

「ほんとだったら、わたしの方が先に逝ってるところだったんですがねえ・・・」

「ちょうどあのとき、ぼくは兄貴の葬式をやった公民館の向かい側にある区立病院に入院してましてねえ、いえねえ、腎臓がひどく悪くて絶対安静というか、外出禁止で・・」

「だから、兄貴の通夜にも出られなかったんですがねえ・・・やっぱり、お別れをしたくてねえ・・病院からこっそり抜け出て、あそこの角で手を合わせてたんですよ」

「兄貴とぼくは大正十三年生まれの双子でしてねえ、ずっとこの町に住んで、戦争も二人で乗り切ってきたんですがねえ、兄貴に先に逝かれてしまってねえ・・・・」

「あ、煙草はお吸いになられますよね」

といって、隣のテーブルからクラシカルな切子細工のガラスの灰皿を取り上げ、梅川の前に差し出した。

「もう昨今は煙草を吸う人間は嫌われ者ですからねえ」

「わたしも入院中は禁煙させられましたが、煙草止める位なら早く死んだほうがいいですよ」

「煙草をやる人は肺がんになる確率が三倍とか四倍とか世間様では言っていますけれどもね、私なんか七十年も吸い続けてまあだ生きておりますしね、悪くなったのは腎臓でね、肺なんかどっこも悪くはないんですよ」

「兄貴だって、ぼくとおんなじヘビースモーカーでしたけれどもね、心臓で死にましたからね」

「大体、統計だかなんだか知りませんけれどもね、煙草吸いで肺がんになられる人というのは、何度も禁煙をしてはまた始めるような人なんじゃないでしょうかねえ」

「結局ストレスじゃあないでしょうか」

「だから、わたしみたいにずっと吸い続けてきていると癌にもならないんじゃないかとつくづく思っているんですよ」

「禁煙で苦しむなんて、最悪のストレスですからね、癌になっちゃいますよねえ」

「お医者様なんかたいそうな事をおっしゃいますけれどもね、わかってらっしゃらないんですよ」

「まあ、お好きなだけお吸いになってらしてくださいね」

 

梅川は、一気に喋りまくる随分と血色の良くなったその老人の顔をあっけにとられてみているだけだった。

いまだに目の前の状況がつかめないでいた。

うす暗い室内には西日が差し込んできていた。

「ボーンボーン」という柱時計の音が室内に響き渡った。

 

 煙草  「完」