1月の日曜日、いつものようにインターネットを検索していると、「零戦21RCセット、4800円」という広告に釘付けになった。

写真があり、小さい零戦がラジコンで飛ぶ映像も付いていた。

何も考えずに、「買い物カゴ」に入れ、発注した。

 

なんといっても、零戦には思い入れがある。

私が小学校の頃の昭和30年代、日本の男の子は皆ヒコーキ少年だった。

放課後になると、小学校の校庭には、沢山のゴム動力の、竹ひごと紙の翼をもった飛行機が乱舞していた。

3丁目の夕日」という映画があったが、まさしく私も団塊の世代の真っ只中で、幼い頃はあの貧しくも楽しい時代に育ったのである。

テレビがようやく家庭に普及して来た時代であり、子供達は、男の子は広場で野球を、女の子は路地でままごとやゴムとび遊びをして、暗くなるまで外で遊んだものである。

夕方になると、母親の子供の名前を呼びながら「ごはんですよー」という声が聞こえたものである。

私は模型少年だった。

まだ、プラモデルという製品が開発されていない時代であり、船は軍艦で、木で出来たソリッドモデル、飛行機はゴム動力だが、バルサ材でリブ組みした紙貼の零戦なんかも作った。 

これはゴムの動力であったが、重くて殆ど飛ばなかった記憶がある。

小学校高学年になると、エンジン付きの飛行機に没頭した。

今は殆ど見なくなってしまったが、「ワイアーUコン」という、2本の金属ワイアーの先にエンジン付きの模型飛行機をつけて、半径20mぐらいの円周上をぐるぐる回して飛ばす仕組みである。

宙返りなどの曲芸飛行も出来、当時は日曜日には学校の校庭で、大人たちが遊んでいたものである。

私の家の近所に住んでいた大工の親父さんは、模型飛行機作りの名人で、学校の帰りに毎日遊びに行っては、大きなB29だの、きれいな零戦などの飛行機を見せてもらった。

当時、無線で飛行機をコントロールする「ラジコン」という技術は開発されたばかりで、大工の親父もあまりにも高価で手が出なかったようだ。

当時小型車が1000ドルカーといって、36万円の時代に、ラジコン飛行機のシステムはそれ以上の値段がした記憶がある。

一度だけ、模型店の店主がラジコンの飛行機を飛ばしたのを見たことがあった。

真っ白なセスナの機体で、小さなエンジンをつけて小学校の校庭で飛んでいたが、その華麗な姿に感動したのを覚えている。

私はUコンの機体を随分作った。

単なるスタント機ではつまらなく、零戦をはじめ、3式戦飛燕や紫電改とかの日本の戦闘機を作った。

プロペラ式の、大戦中に設計された日本の戦闘機は、美しい機能美を持っていた。

戦争の道具としてはでなく、機械としての素晴らしさ、技術のすごさにあこがれたものである。

戦争の傷跡に触れようとしないで、日本は急速に復興の道を進んでいた時代であった。

当時の大人たちは、意識的に戦争のことを子供達にあまり話そうとはしなかった。そして戦後生まれの子供達は天真爛漫に力強く育っていった。

 

昨年の4月から防衛庁関連事業の営業に異動になったため、毎週のように全国の自衛隊の基地へ挨拶回りに出張していたが、鹿児島の海上自衛隊の鹿屋基地を訪問した際、展示室で、それは美しい零戦52型に出会った。

錦江湾から引き上げて、三菱重工チームがレストアし、再現した機体である。

なんだかとても懐かしいものがこみ上げてくるのを感じた。

 

さて、話は戻るが、インターネットで注文した零戦は、三日もしないで我が家に届き、大きな箱の中から、可愛い発泡スチロール製の零戦が出てきた。

おもちゃっぽいけれども、送信機もついていて、なんだか飛びそうな感じで、電池と内臓のモーターでプロペラが回る。

週末、近所の運動公園にレノさんの散歩がてら飛ばしに行ったが、10m位はスーッと飛ぶが、高度が下がってきて流れる。

でもスロットルボタンをぐいっと押すと、「ういーん」と機首上げをして、頑張る姿に感動。

でも10秒と滞空しないで落ちてしまうのは、子供の頃に作ったバルサのゴム動力の零戦とあんまり変わりがない。

「レノ伍長、機体を回収せよ!」

「わふっ!・・・(ラジャー!)」

レノさんが鼻息も荒く、猛ダッシュして飛んで行き、小さい零戦をくわえて引きずってくる。

「わふ、わふっ!・・・(もう一回投げろ!)」

「伍長!上官に向かって命令するとかけしからん、それにこれは投げているんじゃあない、飛ばしているのだ!」

何度か飛ばすが、満足には飛ばなく、レノ伍長が喜んで回収してくるだけであった。

「ご、伍長! 羽が歯型だらけではないか!」

「わふ、わふ、わふっ!・・・(もっとやろうよ)」

いつものボール遊びと思っているようだ。

始めるといつまでもしつこいのである。

結局、ラジコン的な旋回とかの操縦飛行は出来ない代物で、やっぱり玩具のたぐいである。





翌週になり、毎日のように行く市谷の防衛庁の正門近くにある、「気になる店」の禁断のドアを思い切って開けてしまった。

JR市谷駅から防衛庁正門に向かって歩くと、右側のビル1階の大きなガラスのショウウインドウに、赤い大きな飛行機が飾ってある、ラジコン飛行機のプロショップがある。

「リトルべランカ」という素敵な名前のお店であるが、「こんなものにハマッたら、もうおしまい」と、いつもは目をつぶって通り過ぎる場所である。

ここに入った理由は、あのオモチャのTAIYO零戦の非力な電池に代わる良い電池がないかな、と言うことであった。

天井からぶら下がる、翼長1mあまりの欧州メーカー製の零戦に目を見張る。

「美しい!」 

これが電池でぶんぶん飛ぶと言う・・・まるで空飛ぶ大型プラモデル。

思えば、子供のころ、いや大人になってからも、時折戦闘機のプラモデルは買って来た。

昔は機首にモーターが入っていて、プロペラが廻るものもあったが、当然飾っておくものであって、飛ぶものではない。

当時「これが実際に飛んだらなあ・・」と、夢見たものである。

今、目の前にある零戦は、操縦席の中まで作り込まれた精巧なものであり、精悍な顔つきのパイロットが操縦かんまでも握っている。

さらに、これが実際にラジコンで飛ぶと言う。それもエンジンではなく、電池とモーターで。

にわかには信じられない。

何十年もラジコン雑誌など買ったことがないから、最近の技術の進歩は知る由もなかったが、なんだかすごいことになっているようだ。

 

そこの小林社長としばしお話させていただき、結局買ったものは電池ではなく、「Real Flight G2」というフライトシミュレータソフトだった。

4万円と言う価格が高いのか安いのか、あまり考えない人間だから仕方がない。

「ラジコン飛行機やるなら、まずこれで練習するのが一番!」というアドバイスに従った。

昔は、こんなフライトシミュレータなどと言うものはなかったから、ラジコン飛行機は実際に飛ばして操縦の訓練をしたはずだ。

操縦は決してやさしいものではないから、一瞬にして高価な機体が墜落、クラッシュする。

過酷で投資がかさむ趣味であり、相当な金持ちでなければ出来ない道楽であったはずである。

しかし、この米国製のフライトシミュレータソフトは、買ったものの、残念なことに我が家のPC環境では動かず、BICカメラで3Dグラフィックボードも購入し、勢いでPCの増設メモリも購入、気がつけば、もともとラジコン飛行機を飛ばすための入り口投資はすでにかさんでいた。

後日「FMS」というフリーソフトがあることに気がついたが、まあ、このシミュレータは、我社が本業で作っている各種シミュレータに比較しても良い出来で、確かに飛行機のメカニズム通りに飛行する様子や、ジェット戦闘機が宙返りやロール、背面飛行する様が再現できて面白い。

でも、その先にはやはり実機を飛ばしたい願望がある。

それからというもの、連日インターネットで「ラジコン」のキーワードで検索、月刊「ラジコン技術」も買ってきて、調査を重ねた結果、子供のころからのこの40数年間でのラジコンの技術の進歩と、ここたった12年で大幅に変革した電動ラジコン飛行機の世界が見えてきた。

 

やがて2月、仕事が終わってから、秋葉原のラジコンショップへ行く。

送受信機の付いたRTF(Ready to Flight:すぐ飛ばせる半完成機のセット)のラジコン模型飛行機が山のように並んでいる。

ちょっと週末に飲んで遣ってしまう金額で買えるのにまた驚く。

でも実は、買う機体は決めていたのである。それは「セスナ」であった。

いや、「初心者は高翼機から」という理由ではなく、あの時、夕焼けで真っ赤に染まった木造3階建て、小学校の校舎の屋根越しを、軽やかなエンジン音を響かせて、バンクしながら、かすめて飛んでいったあの真っ白なセスナの姿が目に焼きついたままだからであった。

 

でもセスナは、小さいのから大きいのまで沢山あって大変迷った。

飛ばしやすそうな安価で小型のセスナは、ラダーで旋回するものばかりで、なんだか家にある零戦と似た玩具のようで、安っぽい。

エルロン動翼が付いていて、バンク旋回でき、そしてやっぱりスケール感が高い機体が欲しかった。

結局1時間も迷った挙句、一番スタイリッシュで真っ白な「上級者向けSSセンチュリオン」を購入、フタバ社の4CHプロポもついていた。

 

ある晩、またまたインターネットを見ていたら、「TAIYO零戦クラブ」というサイトに行き着いた。

「なになに?うちにある、あの発泡スチロールの零戦を改造することで飛び回り、空中戦?」 

空中を高速で飛びまわる動画もあり、目が点になった・・・。

「こりゃすごいや、やってみたい!!」

そのサイトの管理人殿が経営するラジコンショップ「ロビン」は、我が家から案外遠くない豊田駅近くにあった。翌週土曜日に車で出かけた。

店主の田中さんは、元ソフトウエアエンジニアだったが、ラジコン飛行機に狂って、脱サラし、ラジコンショップ始めたという、典型的な趣味を商売にした御仁だった。

いろいろ教えていただき、零戦改造フルキットを購入した。

まず、内蔵してあった小さな非力モーターは取り外して、馬力のあるモーターに交換し、まともなラジコンチャンネルの受信機も装備させ、エルロンとエレベータの動翼を取り付け、超小型のサーボモータで制御する。

電池は「リチウムポリマー電池」という最近開発されたばかりの高密度の小型電池である。

かくして、主翼にレノさんの歯形の付いた零戦は、2週間後には華麗な改造機となって完成した。

送信機のスロットルを上げると、すごい勢いでプロペラが回る。

オリジナルのものとは段違いであり、これは本当に飛びそうな感じがする。

改造零戦の初飛行は、320日の三連休中日に河辺市民グラウンドで実行した。

もちろん、4万円+で装備したフライトシミュレータは、毎晩訓練を繰り返しており、操縦のイメージは掴んできたし、セスナのSSセンチュリオンは、近所の公園で何度か飛ばしている。

セスナはさすがにメーカー品であり、設計がよく出来ているのと、高翼機でもあり、安定してよく飛んだ。

一方、改造零戦は小さくて翼面過重が高いので、ゆっくりは飛びそうになく、難しそうである。セスナと違って車輪がなく、自力滑走離陸できないので、手投げである。

ちょっと風もあり、条件も良くなかったが、ぶーんとプロペラが廻っている状態で、右手で向かい風にばっと投げ込む。

「ぶーっ」と早いスピードで飛んだが、重心が後ろなのか、機首上げもあり、舵をコントロールする間もなく墜落につぐ墜落。 何が悪いのか、何が問題なのか分からない。これは難しい。

ロビンさんで薦められた10枚のプロペラも墜落のたびに破損して、残り5枚になり、機体も中破してきたので撤収して、その足でまたロビンさんへ行く。

田中さんとお仲間の関口さんに、私が改造した機体を見てもらい、いろいろアドバイスをいただく。また、翌日の21日には「零戦クラブ」の仲間が多摩川某所に集合するというので、是非仲間に入れてもらうことにして、その晩はまたまた改造と修理に専念する。 

 

321日 快晴なれど風強し。

私は飛ばせなかったけれど、レノ伍長の歯型付き改造零戦は、零戦クラブのベテランの皆様が飛ばしてくれた。

やはり、操縦技術の問題のようで、ベテランが飛ばすと、自由自在に飛ぶではないか。

40数年前に作ったフルバルサの零戦52型は、合うエンジンを買う小遣いがなくて、飛ぶチャンスもなく、ずっと埃を被ったままだたったが、今小さな零戦21型が青い空を高速で飛んでロール、ループする姿はまさしく感動でしかない。

いつしか気持ちは小学生に戻って行った。

 

あのバルサの零戦52型、そう、小学校最後の夏休みの工作の課題に作って持っていったら、先生達に褒められて、主翼に金紙を張ってもらい、嬉しかったあの零戦はどうなったのだろうか。 

もう実家の母が、とうの昔に処分してしまったのだろうか?

もし、当時のようにまだ物置にあって、私の操縦技術がまともになったら、鹿屋基地の零戦のようにレストアして、最新のブラシレスモーターをつけて、半世紀の時を経て飛ばしてみたいと思った。


小学生のときに作った零戦52型

零戦の輪廻